ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第608回】国中と郡内

 プロレスラー武藤敬司が引退した。ドームでしっかりそれを見届けて来た。

よっ、千両役者。ラスト武藤登場。

1984年4月に入門した当時の武藤は坊主頭にクリクリとした目をした坊や…そんな初々しい姿をよく憶えている。半年後、10月5日の越谷市体育館でのシリーズ開幕戦で異例のデビュー。若手のデビューはシリーズ中盤の地方が多く、我々の目に接することが少ないが、大量離脱後の新日本は「ウチにはこんな人材がいるよ(ビズリーチ!)」とアピールしたかったんだろうか…お陰でしっかり目撃できた。

vs蝶野に始まり(越谷)、vs蝶野に終わる(ドーム)か…。

同期相手(蝶野)のデビューも珍しく、ここからライバル物語が始まる(逆エビで初陣勝利)。その頃から武藤の試合は垢抜けていてキビキビした動きをしていて、同期の中でも勝率は抜けていた。ジャンボ鶴田や佐山聡がそうだったように、武藤にとってプロレスは「簡単な職業」だったのかもしれない。翌年3月1日の後楽園でムーンサルトプレスを初公開している。驚きだ。昔だったら、デビュー半年の若手があんな派手な大技は絶対にやらせてくれなかったが、旧UWFへの大量離脱で若手不足になり、新弟子たちのデビューが早くなり、試合の内容にも縛りが少なかったことが良かった。かったるいことが嫌な武藤は縛りが多ければ、早い時期に辞めていたかもしれない。柔道出身ということを活かして三角絞めなんかもフィニッシュに使っていたなあ。自由奔放にやらせる…それが武藤にとっていいように作用したと思う。

若い時からやたらに派手だった。

 よく「ケンミンショー」に出演しているように山梨ケンミン。山梨県下では84年8月に甲府市東急建設駐車場で新日本は興行しているけど、武藤は新弟子でまだデビュー前だった。デビュー後なら85年4月1日、石和小松パブリックホールで試合をしている(このホールの新日本初使用はかなり遅くて81年7月)。丸坊主にして臨んだヤングライオン杯争奪リーグ戦…この石和で武藤は船木優治(誠勝)に勝利している。私は5年後、10年後のこの2人が新日本を背負って立つ存在になるのではと思った(ところが武藤は三銃士という名で括られて単品としての出世は足踏みし、船木はUWFの別路線へ行ってしまったが…)。石和(現・笛吹市)のある甲府盆地は国中地方と呼ばれてジャンボ鶴田の故郷(牧丘町、現・山梨市)にも近い。同じ山梨県でも武藤の生まれた郡内地方(山梨県東部・富士五湖地方)とは風土も気候も県民性も違う。甲斐の国を統一した武田信玄…その子・勝頼は、郡内を治めていた小山田信茂に裏切られて名門武田家を滅ぼされてしまうという歴史背景もある。国中のジャンボと郡内の武藤…同じ甲斐が生んだ天才でも、育った環境がまったく違ったといえる。

武藤の生まれは河口湖畔にある富士吉田市。富士山北麓の地元・富士吉田にある富士急ハイランドの大ホールで85年7月5日新日本が興行を打っていて、私も取材に行った(バーニング・スピリット・イン・サマー第6戦)。ここの新日本初使用は73年4月22日…当時10歳の敬司少年はこの興行を観ただろうか(メインは猪木&柴田vsジャン・ウイルキンス&プロフェッサー・バーン・ジール)。武藤にとって富士急ハイランドは地元中の地元、その85年夏が初の凱旋試合だった。この日のことが私の記憶から消えない。試合前、控室へ行ったら練習を終えた猪木さんが床にタオルを敷いて横になっていた。「おい、誰か、武藤を呼べ」と声を掛け、暫くすると武藤がやってきた。「武藤、頼む、やってくれ」と言うと、武藤がマッサージを始めた。猪木さんは目を瞑りながら時々唸り声を上げる。そして「武藤、お前は本当に上手いな」と呟く。「柔道やっていた時にちょっとやってましたから…」って照れ笑いする武藤。実際、武藤は東北柔道専門学校で整復師の免許を持っていた。「お前、これだけで食っていけるぞ」と猪木さん。武藤は猪木さんの見えない角度で首を横に振りながらアカンベーと舌を出した。何分くらいやっただろうか、「よしゃ、これでいいぞ!」と猪木さんはスクっと立ち上がって満足そうな表情を見せた。その日、武藤は第3試合で山田恵一と組んで小杉俊二&橋本真也と対戦し、橋本を押さえて真の地元凱旋勝利をしている。

富士急ハイランド。この後、マッサージを。

あの時、武藤が首を横に振りながら舌を出したのは何だろう。もしかしたら「俺は猪木さんのマッサージ師をやらされ続けるのは嫌…上下関係で縛られる社会もウンザリなんだけどなあ」って言ったのかなあ…。5ヵ月後、坂口副社長は早々、武藤をフロリダへ修行に出した(本人も同行)。その判断は最高だったと思う。鳴り物入りではないのにデビューからこんな早く海外へ出る例は極めて珍しい。坂さんはそれだけ武藤の才能を買って新日本の未来へ先行投資をしたのだと思う。武藤がアメリカへ旅立つ直前のシリーズ(バーニング・スピリット・イン・オータム)。山梨県下で珍しく2つ興行があった。ブロディ、エリックス、フィッシュマンの来たシリーズである。一つは10月13日、田富町スーパーオギノ駐車場。武藤は越中と組んで力抜山&金秀洪と対戦し、金からフォールを取っている。田富町は甲府の南西にある現・中央市。身延線の東花輪駅から歩いて10分くらいで、「オギノ田富店」は今も健在である。甲府市内にはプロに貸してくれる体育館がないので苦肉の策としてここを使ったのだろう。

他県に比べると決して広くはない山梨県(面積ランキング32位)。新日本の場合、だいたい年に1回のペースで興行が打たれているが、75、78、79、80年は1度も来ないという、どちらかというと「闘魂プロレス空白地帯」なのだ。それなのにである、この84年10月13日の田代町大会の6日後に韮崎市体育館で興行が打たれたのだ。田代町と韮崎は直線距離で僅か13キロ。田富大会から韮崎大会の間には金沢、福井、富山、後楽園ホールと4試合挟まっていても、山梨県のファンにとってそんなことは関係ない。6日間で13キロしか離れてない場所に2回も新日本が来たことには変わりないのだ。それってかなり異例のことだったと思う。どちらも甲府盆地の国中地方ではあるが…。韮崎市体育館は80年3月竣工と新しく、81年1月22日にジャンボがブッチャーからUNを奪回したのがプロレス初使用で、国際が崩壊した最後のシリーズの開幕戦だった会場(同年7月16日)。新日本は82年9月にここを初使用している。山梨ケンミンたちにとっての武藤敬司壮行試合でもあった85年11月19日の韮崎大会…なんとここで組まれたのが先輩の山田恵一戦。おいおい、それはないだろってカード。引き分けの経験もあるが、やっぱり武藤は敗れてしまう…。国中でのことではあるけど、うーん、もっと気をきかせてほしかったなあ…と今でも思うのであります。

韮崎市体育館の外観。(撮影:冨倉太)

日曜日の東京競馬場で国内ラスト騎乗をした福永雄一と同じように、東京ドームでも一人のレジェンドの現役を最初から最後まで見届けたという感がある。富士吉田の定点ライブカメラを見ると快晴で富士山が美しく輝き、武藤敬司のラストファイトを祝っているようだった。
武藤選手、長い間、お疲れさまでした。早く普通のおじさんに戻ってください。

「夢?ゴルフができるような歩けるおじさんになりたい」

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅