ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

津山のプロレス(1)

先週まで高知と高松の体育館へ行って来た話を書いて、いろんなご意見や新資料を寄せてもらった。これらの体育館は県庁所在地の主要会場だが、県下でもナンバー2や3以下の町にも昭和のいい体育館が残っている。今回の山陽&四国の旅で自宅を出て最初に行ったのが岡山県津山市。中国地方の東部、岡山県では第3の人口も持つ県北最大の町。四方を山に囲まれ、中国山地の要衝にあるため、周辺は戦国山城の密集地帯である。そのため私はここ10年間でこの町で計10泊くらいしている。美作(みまさか)地方攻略のベースキャンプのような場所である。

印象的な津山市総合体育館の外観。

 ゴング時代、1993年と2004年に新日本の取材で津山市総合体育館に来たという記憶がある。津山市の山北669にある総合体育館へ寄って見ると、一発で「そうそう、ここだよ」って懐かしさがこみ上げる。04年の時は翌日に中国山地を越えて鳥取へ行っている。館内を覗くとバレーボールのコートが2面取れるアリーナ。他に剣道場、柔道場が併設された施設である。アリーナの2階固定席は1408、移動席が1200らしい。事務所でそういう津山のスポーツ施設の資料を貰う。正式名称は「岡山県津山総合体育館」のようだ。完成は1976年12月15日…力道山の13年目の命日じゃないか。完成時を知る職員の方はいなかった。

アリーナは37m×44m。コの字の2階席あり。

体育館完成以前、津山のプロレス興行は野外だったようだが、気になるのは1970年3月23日、国際の『第2回IWAワールドシリーズ』第6戦に「津山市体育館」という記録がある。総合体育館が出来る以前の旧体育館があったのだろうか…。そこは不明である。野外ならば新日本が74年4月22日、『第1回ワールドリーグ戦』で市内の「鶴山球技場」を使用している。公式戦は猪木vsジ・インベーダー、クラップvs星野。鶴山とは津山城のある約50mの山を指し、別名鶴山城(かくざんじょう)とも呼ばれた。平らで人が集められる場所は城の北側だろう。

国史・津山城(津山市鶴山公園)の夜桜。

今回は立ち寄れなかったが山下131という住所に球技場は存在した。国際が76年6月6日(ビッグ・チャレンジ・シリーズ)に「津山市鶴山公園」で興行を打っている。表記はこうでも恐らく球技場と同じ場所のことであろう。岡山市在住の梶谷晴彦さんはこの時、60キロも離れた津山まで足を運んだという。でもガイジン側の泊まる津山プラザホテルまでは行ったが、大会を観戦はしていないとのこと。記録上のメインは木村&稲妻vsエディ・サリバン&リップ・タイラーだが、リアルなメインは金網だったと思われる。セミの下に表記されているプリティーボーイ・アンソニーvs大位山がそれか、それとも上田馬之助vs鶴見五郎か…ここも不明である。この前日、国際は西へ23キロの久世町体育館(現・真庭市)で試合をしている。私も今回を含めこの山間の町に2度ほど行ったが、林業と酒造りを生業とする小さな町だ。国際は他に高梁市民体育館、新見市体育館、湯郷町美作文化センター(現・美作市)など山深い中国山地での興行を開拓したパイオニアである。

ホテルの庭でくつろぐ上田。バックは津山市街(撮影:梶谷晴彦氏)

総合体育館がその年の12月に完成すると、いの一番で使用したのが新日本だった。77年1月27日、『新春黄金シリーズ』第16戦。しかし、異変が起きる。1月14日の福岡市九電体育館でのスタン・ハンセン戦で猪木が第三脛骨捻挫により半月間欠場。そのためプロレスこけら落としの総合体育館のメインは坂口&ストロング小林vsシン&ザ・ブルータスに、セミがハンセンvs永源にというパンチのないカードになってしまった。その穴埋めのために半年後に新日本は再び津山にやってきた。岡山市の岡山県武道館ならば年に2度は当たり前だが、この程度の中型都市に年に2度来ることは滅多にない。そこは間違いなく猪木欠場への詫びが入っているとみるべきだろう。メインは猪木&木戸vsブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアス。セミがシンvsマサ斎藤…1月とは大違いだ。この77年には全日本も津山に来ている。『ジャイアント・シリーズ』第5戦(10月6日)がそれ。大阪府立で馬場vs大木のPWF&アジア・ヘビーのダブルタイトルマッチをやった翌日がこの津山だった。メインが馬場&鶴田vsボボ・ブラジル&ワフー・マクダニエル、セミがデストロイヤーvsロッキー・タマヨ(インカ・ペルアーノ)、その下がケン・パテラvsクツワダ、高千穂vsジェイ・ヤングブラッド。梶谷氏が津山で初観戦したのはこの試合だったという。ライティングがテレビ用の照明ようだが、TV放送はしていないように思う。12日の唐津がTVマッチで、メインが同一カードである。予備のために収録していた試合なのであろうか…これまた不明(原章氏のメモがあれば解決するだろう)。

77年10月6日、全日本のメイン(撮影:梶谷晴彦氏)。
4年ぶり2度目の来日のケン・パテラ(撮影:梶谷晴彦氏)。

国際の総合体育館の初使用は翌78年の4月27日、『スーパー・ファイト・シリーズ』第18戦。メインはマイティ井上vsジプシー・ジョー。セミが木村&浜口vsジ・インターン(トム・アンドリュース)&ザ・モンゴリアン。この井上vsジョーは金網臭いなあ…。井上はこの4日後に木村のIWAに挑戦している(富士市体育館)。この時は岡山武道館からの岡山県下の連戦だった。他の団体はこういうコースは切らない。ということで、今回は津山のプロレスを書いたけど、来週もこの続きを書こうと思うので、もう少し私の旅にお付き合い願いたい。

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