ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第557回】エスポッサの思い出(1)

 パソコンがやっと修理から戻って来たので、今日から2022年のコラムをスタートしようと思います。ただ、この間に私事ながら大きなものを失いました。16日に愛妻の美津子が急死したのです…。15日午後、清水家の新年会の最中に突然倒れて、救急搬送され、CT検査の末、医師に「脳幹出血で手術も無理。原因は不明です」と言われる(目が点、絶望!)。倒れて半日後、妻は一度も意識を戻すことなく息を引き取りました。兆候はまったくなし、ずっと元気でいたのに…青天の霹靂とはまさにこのこと。なので、新年の挨拶は控えさせてもらいます。

告別式は22日に。マスカラス一家からもお花が(写真:原悦生)

 長年の私の我が儘を陰で支えてくれた妻でした…私自身、精神的ダメージが大きくて、なかなかプロレス頭に戻すのが困難な状況です。辛いけど、今日からしばらく妻について書かせてもらいます。物書きという立場上、何か文字に残しておきたいので…。Drlucha.com、そのインスタグラムでは1984年2月18日、メキシコシティでの結婚式や翌日の『ラ・ノーチェ・デ・ロス・アルコネス』の妻の写真を何枚もアップしたので、絵面だけで親しみを持ってくれた方も多いのではと思う(本人はそこに自分がアップされていたのを知らない)。

 美津子は新日本プロレス若手時代の佐山聡のファンだった(だから、いの一番にお花を佐山さんに頼みました)。ある面、美津子は私より未来を見る目があったということか…。当時佐山さんのファンクラブがないので、美津子は次に好きなジャンボ鶴田のファンクラブに入った。田園コロシアム決戦で私と対局している。そんなこんなで美津子はマスカラス側の私にジャンプしてきたわけ…。

付き合いを始めた後、79年1月にメキシコに出発するときも羽田空港に見送りにきた。彼女のメキシコへの憧れもそこから始まったようだ。80年に美津子は伯父さんに連れられてイギリスへ旅行する計画があった。「絶対、サミー・リーを観てくる」、「おい、ちゃんとしたカメラを持って行けよ」という会話があったが、伯父さんの都合で急遽中止に…(あれは惜しかったなあ)。

 UWA代表フランシスコ・フローレスが83年に日本へ来た時に「トマス、君たち結婚するならメキシコへ来なさい。私が結婚費用を全部持つから」と提案してくれた。それに私も美津子も乗っかった。美津子は決して嫌がらず、喜んで私のたてたプラン・日程に従ってくれた。両家からは大きな反対意見も出なかったが、親族は誰一人この結婚式ツアーに参加しなかった。まだ、メキシコは未知の危険な地で、こんな仰天プランには付いて行けなかったというのが正直なところだろう(好き勝手するこいつらは仕方ないやつと思われていたはず)。「誰もやらないことをやる」というのが私のモットーだから、当時から私は常識から外れたところがあった。

 結婚予定日を2月にしたのは、『ラ・ノーチェ・デ・ロス・アルコネス』(年間最優秀賞受賞パーティー)があるからだ。この夜は年に一度、EMLLとUWAからスター選手が一堂に会する。それを私たちの結婚披露宴かわりにしてしまえば、選手たちをいちいち呼ぶ手間も省ける。そんな用意周到な計画だった。2月14日、我々は意気揚々とメキシコへ到着したが、UWA事務所で待っていたフローレス代表に「キミたちはカトリック教の洗礼を受けていないから教会に拒否されて予約が取れないで困っている」と言われる。フローレスさんと前週に亡くなったエル・サントの生まれ故郷イダルゴ州トゥランシンゴへ行けば強引に教会が取れるかもという案も出た(私たちは何処でも結婚式が挙げられればいいと軽く思っていた)。

ドレル・ディクソンはプエブラで健在だという

 その時、UWA本部事務所の社長室に呼ばれていたのが“ジャマイカの黒い弾丸”ドレル・ディクソン(神父の資格も持つ)。彼はここまでカトリック教会を探し回ってくれたようだ。そこでフローレス代表が最終命令を下す。「宗派は問わない。金曜日までに教会を探しなさい」。「イエス・サー」とディクソン。そして我々がソチミルコ、パチューカ、アカプルコと試合を観て回っている間にディクソンさんはメキシコシティのナポレス地区にある教会と契約してきたのだ。トレオの特別興行でフローレス代表は「キミたちの結婚式を挙げられる教会が決まったよ。明日はそこで式の予行演習をするから行ってくれ」と告げられる。「おおっ、俺たち結婚できるぞ!」。「やったね!」。

 前日の予行演習で神父さんから「ただ立っているだけでいい。ひざまずく場面もあるけど、私が指示します。ただしこれだけは覚えてほしい言葉があります」と告げられる。「アシ・ロ・プロメト」(誓います)。我々は掌にその言葉を書いて、式の本番に臨むことにする。そんなこんなでやっと決まった式なので、誰にも来てくれるように連絡したわけではない。ましてや当日は土曜日だったから選手たちも大忙しの曜日だった。だから質素が式になるだろうと思われた。「まあ、明日のパーティーでみんなに挨拶できればいいや」という感じ。

結婚式後の記念撮影。右端がディクソン。

そしていよいよ出番、新郎(ノビオ)の私が壇上に立った時、唖然とした。二階席まで含めて数百人入る教会が満員御礼の状態だったのだ!(後のトークショーでもこんな入りは経験したことがない)。多分、その教会の信者たちなのだろう。日本人が結婚するって超珍しかったので満員になったのだと思う。会ったこともない人たちが見知らぬ私たちを祝福している、それだけで大感激だ。後でわかったことだけど、その教会はモルモンだったらしい(モルモンが酒、たばこ、コーヒー、離婚などの戒律や禁止事項があるのもずっと後になって知る。離婚しないだけは守れたな)。

そして最前列には“ルチャ・リブレの母”と呼ばれた名物おばあちゃんのドーニャ・ビルヒニアさんが座っており、ウルトラマンの銀色のマスクも光っていた。円谷のスタッフでも特撮の出演者でもないのにウルトラマンが教会に列席する結婚式って俺たちだけかも…。そしてディクソンさんは中央の柱を背に威厳を示しながら立っていた。当日、ディクソンさんは遠方での試合が入っていたようだが、近場の会場のソラールとチェンジしてもらったらしい(太陽仮面、ごめんなさい)。それはマッチメイカー、カルロス・マイネスの配慮だった(私たちの結婚式は試合カードも変えてしまった…)。そして教会のご近所のドス・カラス夫妻も顔を出してくれた。みんな何処から聞いた情報か…これだけ来てくれただけで十分すぎる。

そしてパドリーノ(媒酌人)フローレス夫妻が最初に入場し、続いてノビア(新婦)の美津子が中央通路から入って来る。式は1時間くらい続いた(日本の教会の式とはまったく違った…)。神父さんのお話が続き、随所にパイプオルガンが荘厳な音色を奏で、コーラスによる合唱も何度かあった。「誓います」もちゃんと言えた。そして美津子はノビアからエスポッサ(妻)になった。その翌日はマスカラスやソリタリオを始め、数百人のエストレージャたちに祝福された。こんな破天荒な結婚ツアーを慣行し、それに喜んで付いてきてくれた…そんな唯一無二の経験をした日本人は間違いなく美津子だけだろうなと思う。

ホテルではブッチャーが祝福してくれた。

あれから38年。今年で妻は定年退職に、夏から年金暮らしになる予定だった。秋には北海道へ旅行する計画もほぼ出来上がっていた。コロナが収まったら、懐かしいメキシコへ連れて行ってあげようとも思っていた。87歳になるディクソンさんが健在なうちに、必ずと…。

パーティーではオールスターに祝福された。

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