ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第558回】エスポッサの思い出(2)

先週に引き続いて16日に急死してしまったエスポッサ(妻)美津子の思い出を綴ることにする。1984年2月18日にメキシコシティで結婚式を挙げ、19日の『ラ・ノーチェ・デ・ロス・アルコネス』(深夜まで延々と続いた)を披露宴がわりにした我々は、翌朝の飛行機で帰国した。数日出社すると、26日は東京での披露宴が待っていた。そこには両ファミリーの親族、友人、会社関係者たちが列席する、日本スタイルのごく普通の結婚披露宴である。

 ただ、当日までがトラブルだらけだった。まずスーツケースが一つ成田に到着せず、世界の何処かを彷徨っていた。そこには結婚式の写真やビデオテープなどが入っていたため、披露宴でメキシコの報告するための材料がなかった。また司会を古舘伊知郎アナに打診していたのだが、海外取材が入ったために出来なくなった(代打がウォーリー)。79年のメキシコ取材でお世話になった佐山さんと木村健吾さんに招待状を出していたが、佐山さんがドタキャンになる。

 当日は全日本が大阪府立体育館(鶴田vsニックのAWA初防衛戦)と重なったためにジャンボとかを呼べなかったけど、馬場元子さんが来てくれることになった。それもドタキャン。後で元子さんに謝られた。その日のためにドレスまで作って行く気満々だったらしいけど、米沢良蔵渉外部長が直前にストップをかけたとか…。それは佐山さんが当時、ショウジ・コンチャとつるんで妙な動きをしていたからだったようだ(コンチャと佐山さんはセットで招待していたのだが、そっちも警戒していたのだろう)。また新間寿氏もと思っていたが、新団体(UWF)の旗揚げを画策している時期で、他との兼ね合いで声掛けを自重した。メキシコは団体交流も盛んで最高の時期だったが、日本マットはゴタゴタ続きの最もデリケートで難しい時期であった。

 2・26事件は続く。当日の東京は大雪で、そのために祖母の春子と東スポの櫻井さんが身動きできずに欠席。踏んだり蹴ったりだ。だが、緊張の連続だったメキシコでの式とは違い、美津子は「最高に楽しい」と披露宴中終始、最高の笑顔を見せていた。私たちも自分たちが主役のイベントを企画・演出・出演の出来る楽しさを知った。「自分たちが楽しければ、みんなも楽しくなれる」…それは30年後のトークショーなどにも反映されたかもしれない。

日本での結婚披露宴はやりたい放題だった。

 国家公務員で、職場まで徒歩5~6分の生活を数十年続けていた私の父・篤三は、私たちが婚約する前、美津子にこう言った。「コイツ(勉)は、徹夜ばかりで家に帰って来ない。時間帯が滅茶苦茶な仕事をしている。それでも一緒になるか」と。ゴングで仕事を始めて3年間、私の生活を見てきた父は普通のサラリーマンではないと、かなり呆れていた。だから、そこを一番心配したのだ。美津子は「はい、大丈夫です」と答えた。芯が強い。だから、そんな私の仕事に対して文句ひとつ言わず、ずっと支えて続けてくれた。今は感謝しかない。

 新婚の時は京王線の代田橋の賃貸マンションに住んでいた。京王線なら新宿まで4駅と近く、府中競馬場にも1本で行ける。会社には神保町乗り換えで行けるので便利。代田橋駅からも徒歩5分。申し分なかった立地だった。ここならば京王プラザホテルからも近いのでルチャドールたちも家に呼べる。ただ、その頃から新日本はポツポツとしかメキシカンを呼ばなくなっていた。

自宅の壁にはマスクがたくさん貼って飾ってあった。ウラカン・ラミレス家をマネしてみただけなのだが…。当時、こんなに着用済のマスクを持っていた者は他にいなかったであろう。すっかりメキシコ通になった美津子は「これがエル・コバルデ、これはエル・タリスマン、これがエル・ファラオン、うーん、これアメリカ・サルバヘ、マノ・ネグラ…」と全部言えるようになった。いや、私がそのように仕立て上げというべきか(ドクトルのエスポッサはドクトーラだった…)。

代田橋の家にはカネック、ペロ・アグアヨ、ブラソスなんかが来たかな。私が「あれをやってみろよ」と言うと、美津子は彼らの前で壁のマスクの名前を一つずつ指さして、名前をコンプリートさせてみせた。それには彼らも「すごい、すごい」と拍手喝采。「ブル・パワーなんか、普通言えないぞ」とプラタが大笑いしていた(そんなアグアヨやブラソスは天国へ行ってしまった…)。

代田橋の家で妻の撮影。アグアヨ、ブラソス、ペペ田中くん。

 87年4月に長男の晴信が生まれる。尊敬する武田信玄の本名から付けた名前だ。武田晴信は21歳の時に父・信虎を追放した。それは息子に追放されないようにという戒めが込められた名前でもあった。竹内さんに紹介された不動産屋を通して、無縁の土地だが板橋にマンションを買った。ここからならば会社に電車1本で行ける。そして、そこが親子3人の住み家となる。89年正月に週刊ゴングの編集長になり、忙しさは倍増していった…。

92年夏、突然、ボビー・リーから会社に電話が入る。電話口のボビーは「いま、高円寺に居る」というので驚いた。仕事をパパッと片付けて、すぐ高円寺に会いに行く。彼は81年秋に通院していた新日本御用達の小野田長生療院で整体の勉強をするため自費で日本に来ていたのだ。ボビーと再会したその直後、自宅に連絡したら、妻が「流産しちゃった…」と力なく漏らした。するとボビーは「今すぐエスポッサの所へ行こう!」と高円寺から板橋の自宅に一緒に急行。ボビーは肩を落としている美津子を「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と憶えたばかりの日本語で時間をかけて優しく介抱し、ポカンと呆気取られている息子と遊んでくれた(そんなボビーも一昨年、他界してしまった)。

板橋の家に来たメキシカンはボビー・リーだけ。晴信と。

美津子は前年にも流産していた。その時は双子だった。元気が売り物の妻だったが、母体は休ませなければならないと思った。晴信に兄弟を作れなかったことは残念だったけど、その分、我々はこの子に愛情を集中した。決して妻を責めているわけではないが、もしあの子たちが無事に生まれていれば、清水家は大家族になって、私たちの人生も違ったものになっただろうし、今、こういう不測の事態になった時にみんなで助け合えただろうと思う。寂しいが、ここからは晴信と二人で妻・美津子の分まで元気で生きて行くしかない…。

美津子はソリタリオに「結婚するなら、俺の母親と姉がウエディングドレスを作ってやるよ」と言われていた。ドクトル・ワグナーとは銀座に買い物に一緒に行ったことも楽しい思い出だし、フィッシュマンにはパチューカで騙されてキツイいテキーラを飲まされた。リスマルク夫婦とはアカプルコの夜にディナーを楽しんだ。その他、ビジャノ3号、アニバル、ロス・トレス・ブラソス、クン・フー、カト・クン・リー、ピエロー・ジュニア、オロ…それぞれいろんな思い出がある。

彼女は自分自身が直接出会い、自分でマスクを憶えた選手たちが亡くなっていくたびに「えっ、本当に!」と驚きの声をあげた。そして自作の仏壇に自分の両親や愛犬とともに彼らの遺影や人形を飾っていた。さる15日、倒れる1時間ほど前に、そういう日墨合同の仮設の仏壇が家にあることを兄嫁に自慢げに語っているのが私の耳にも聞こえてきた(まさかそこに自分が入ろうとは…)。恐らく美津子は今頃、あのエストレージャたちと天国で再会しているだろう。そして天国でも彼らのマスク当てをやっているかもしれない…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅