先週は次号のGスピリッツの表紙とコンテンツを披露したので、一週飛ばしで「ジャイアント馬場の町・三条」の続編を書かせてもらう。馬場家の菩提寺・本成寺の後に向かったのは母校の三条実業高校(現・新潟県央工業高校)。馬場さんの実家の近所なので通学は楽だったはずである。

馬場少年は、ここの野球部に所属して巨漢ピッチャーとして鳴らし、高2の時に読売巨人軍にスカウトされてプロ野球への道を歩んだのは有名な話。その後、プロレスラーとして大成した馬場さんが母校のグラウンドで試合をしたのはあまり知られていない。昭和30年代から50年代、市町村に体育館がない時代には学校の校庭で試合が行われることも珍しくなかった。日本プロレスは1964年7月23日、『プロレス夏の陣』として三条実業高校グラウンドで興行を打った。市にはまだ体育館がなかった。馬場は中退から10年後、プロ野球選手ではなく、ワールドクラスのプロレスラーとして母校に凱旋したことになる。

それもただのご当地凱旋興行ではなく、タイトルマッチが組まれたのである。豊登&馬場vsザ・スポイラー(ドン・ジャーデン)&ジョニー・バレンドのアジア・タッグ選手権である(猪木は渡米中で不在)。過去に後楽園球場、田園コロシアム、大阪扇町プールなど大都市の野外でのタイトルマッチはあったが、地方都市の野外で選手権試合が組まれるのは珍しい。62年7月に大阪国際空港に近い豊中市大門公園、63年10月に福岡市の筥崎神社で力道山&豊登がアジア・タッグの防衛戦をしているが、人口10万人ほどの地方都市での青空タイトルマッチは初といえるだろう。それも高校のグラウンドで、というのも史上初。あの国際プロレスも校庭ではタイトルマッチはやっていないと思う。

私はその後、三条市厚生福祉会館へ行ってみる。昭和半ばに市は財政難を考慮して厚生年金還元融資制度を利用し、市民の健康を支えるために体育館を設けた。長岡市厚生会館がその方式による全国第1号の体育館となり、それに習って新潟県下では直江津市厚生会館、村上市厚生会館が続いたのだが、いずれも今はない。厚生会館というと長岡とともに姫路市厚生会館や釧路市厚生年金体育館を思い出すが、それらも取り壊されている。だから三条もないだろうと思って行ってみたら、「ええっ、あった、あった!」……見覚えのある三角屋根が! 81年8月28日、『スーパーアイドル・シリーズ』で行って以来、45年ぶりの勇姿がそこにあった。あの日はPWF杯争奪タッグ・リーグ戦の決定戦でマスカラス兄弟がリッキー・スティムボート&チャボ・ゲレロを破って優勝した日で、竹内さんが「一緒に行こう」と誘ってくれた。その日、竹内さんはテレビの解説で、私をマスカラス担当記者として指名してくれたというわけ。まだ上越新幹線が開業していなかったから、三条へは上越本線の特急「とき」で行って、帰りは例によって寝台急行で帰京したのだろうと思う。

館内をちらりと覗かせてもらった。驚くほど狭かった。きっと45年前にもそう思ったはず……。最近、YouTubeであの試合を観た時も「こんなに狭かったっけ」と思ったが、45年ぶりに改めて現場へ行ってみると、その狭さに「ここでテレビ中継をやったのかあ」と驚く。新日本や全日本というよりも「国際プロレスサイズ」と言える体育館だ。そう、ここを最初に使ったのは国際だった。いやいや、その前に日本プロレスが67年7月30日に「三条市厚生会館前広場」で試合をしている。夏だったからか屋内ではなく外だったのか。現在の駐車場あたりか……。どこにそんなスペースがあったのだろうか。メインは馬場&猪木&吉村vsジェス・オルテガ&カテリーナ・ドレーク&アントニオ・プグリシー。馬場さんの3年ぶりの地元凱旋だった。さて、建物の中での興行となると、国際が最初……。それが69年7月15日、『サマー・ビッグ・シリーズ』の第5戦。メインは豊登&草津vsルター・レンジ&ティト・コパ、セミはストロング小林vsオックス・ベーカー。その上、TBS系列のテレビマッチ(都内では23日オンエア)であった。4500人(主催者発表)は大袈裟だ。そんなに入れたら椅子なしの立ちっぱなしの満員電車状態になる。このサイズ感が気に入ったのか、国際は翌70年10月9日にも三条にやってきてタイトルマッチをやっている。その日には田中忠治vsエリック・フローリッチのIWAミッドヘビー級選手権があった。

馬場が所属している老舗・日本プロレスがここの屋内を初使用したのは72年の『第1次サマー・ビッグ・シリーズ』第17戦。メインは馬場&坂口vsエル・ソリタリオ&ジミー・バリアント(ソリだけが最終戦)。セミがマスカラスvs星野勘太郎。馬場さんは5年ぶりの故郷凱旋だったが、翌日の石巻大会を最後に日本プロレスを退団している。7月28日に都内で退団発表をしているのだが、地元の後援会等との関係もあったためだろうか、この三条大会の欠場は避けたのであろう。筋を通してシリーズを全出場した。

独立した馬場が全日本の社長&エースとして故郷に錦を飾ったのは75年4月22日、『第3回チャンピオン・カーニバル』第15戦。メインは馬場&デストロイヤーvsジン・キニスキー&スティーブ・カーン。セミは鶴田vsボブ・オートン・ジュニアで、公式戦はキラー・コワルスキーvs高千穂明久だった。2年後、『第5回チャンピオン・カーニバル』(77年5月13日)は馬場&鶴田vsスーパー・デストロイヤー&ブル・ラモス。ドン・ジャーデンは、あのアジア・タッグ以来13年ぶりの三条だった。ちなみに翌日の日本武道館でブッチャーと鶴田を連破した馬場が4度目の優勝を果たした。じゃあ、次の年の春も全日本かと思いきや、78年に三条にやってきたのは何と新日本だった(4月26日)。それも新装開店の『第1回MSGシリーズ』。メインはアントニオ猪木ではなく坂口征二&藤波辰巳&長州力vs上田馬之助&ニコリ・ボルコフ&マーティー・ジョーンズの6人タッグ。猪木はというと控えめに(?)セミに登場して公式戦で木戸修を破っている。この日の三条市民の反応はどんなものだったのだろうか……。翌79年の『第7回チャンピオン・カーニバル』(3月31日)は、公式戦のメインが馬場vsディック・スレーター、セミが鶴田vsキラー・トーア・カマタ、その下でアブドーラ・ザ・ブッチャーvsドス・カラス……。これが三条からの初の生放送であった。

この年の11月13日には国際プロレスがこの小さな体育館でやってくれた。ラッシャー木村に帝王バーン・ガニアが挑戦してベルトが移動したのだ。これによって三条市厚生福祉会館は、日本プロレス史に名を残す施設となる。これが東京12チャンネルで19日に都内で放送されている。ただ、客が入っていないのがよくわかった。全日本は80年8月28日の『第8回サマー・アクション・シリーズ』でも三条を使っている。メインは馬場&鶴田vsブッチャー&レイ・キャンディ。公式戦ではスレーターvsテッド・デビアス、テリー・ファンクvsタイガー戸口があった。馬場がメインから外れてセミに甘んじたのは、あのマスカラス兄弟vsリッキー&チャボの時だけか。

82年6月に馬場はメインに復帰し、83年4月3日にはインター・タッグで主役に完全カムバック。鶴田と組んでスタン・ハンセン&アレックス・スミルノフを破って防衛した。84年4月21日にはPWF世界タッグ王座決定リーグ戦でドリーと組んでハイ・フライヤーズ(グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼル)をここで破った。馬場さんは88年3月29日の『88チャンピオン・カーニバル』まで地元・三条でメインを張り、89年大会から一線を引いた。かなり記憶から飛んでいるけれど、この三条では改めていろんなことがあったのだなあと思った。そして今年4月26日、全日本は『チャンピオン・カーニバル2026』でこの三条市厚生福祉会館を使用し、ポスターの中央奥に馬場さんの姿があったのは、実に微笑ましかった。それよりも次週発売のGスピリッツVol.80をよろしくお願いいたします。
