ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第654回】数字で解くAWA

北海道から帰って来てからは次号Gスピリッツ(第71号)の取材と執筆に追われている。その上、72号用の先行取材まで何件か入って、その下調べなどしていると飯を食うのも忘れる始末…こんなにケツに火が点いた感じは久しぶりだ。それに明後日、2月23日(金=祝)には『第5回チャンピオンベルト・カーニバル』も迫っている。限られた時間でその調べものをしなくてはならない。そんな中、これだけは行かなくしてと腰を上げたのが新日本『2024ファンタスティカマニア』。試合をしっかりチェックするのはもちろんだが、プライベートで来日しているCMLLサルバドール・ルテロ・ロメリ代表(ルテロ家直系の3代目)にご挨拶するのが一番の目的であった。

サルバドル・ルテロ・ロメリ代表とビビアナ夫人。

 夫人同伴で来場していたロメリさんは、以前に一度日本に旅行で来ており、今回が2度目…大の親日家である。「トマスはすごい昔からの友人で、我々の会社のプロレスを応援してくれた雑誌の記者なんだよ」とビビアナ・コーチェン夫人に私を紹介してくれた。ロメリさんに最初にお会いしたのは1981年。高杉正彦がメキシコに着いたばかりで、事務所で途方に暮れている時だった。そこにロメリさんが来て優しく応対してくれた。以来、アレナ・メヒコの事務所に行くたび大変にお世話になった。1998年にツアーを企画した時は事務所にツアー客を招いてお話を聞かせてくれ、アレナ・メヒコ内のジムも見学させてくれた。実に物腰の柔らかい超ジェントルマンである。2015年9月にはロメリさんにインタビューをしている。本誌39号に掲載してあるので良ければ読み返してほしい。79年に2代目のサルバドール・ルテロ・カモウ氏が退陣した時に長男のロメリ氏が跡を継いだと当時の現地マスコミはそう思った。私もその一人だ。NWAのメンバーシップ手帳には79年にはカモウ氏とロメリ氏の親子が連名で記されていたし、馬場とドリーがメキシコへ遠征した際やアンドレなど大物ガイジン選手のアテンドはいつも彼だった。でも、実際は英会話が堪能なので父親をサポートしていただけで、正規の3代目の代表はパコ・アロンソ・ルテロ(初代サルバドル・ルテロ・コンサレスの長女の息子)だった。ロメリさんとパコ代表の従兄弟である。金曜日に闘道館(チャンピオンベルト・カーニバル)に登場するNWA世界ライトヘビー級のチャンピオンベルトは、まさにカモウ政権からパコ政権(74年末~88年、92年~95年)のEMLL最高峰のタイトルであった。ちなみに今回、来日したアトランティス・ジュニアが保持する世界ヒストリック・ライトヘビー級選手権の前身がNWA世界ライトヘビー級選手権である。CMLLはあの巨大連合組織NWAが消滅した今もその歴史を大切にしているのだ。2019年7月にパコが亡くなってから、ロメリ氏の長女ガラ・ルテロ女史が実権を握った時期もあったが、結局はCMLLのロメリ氏が新社長に就任して今日に至っている。まだロメリさんは日本に滞在しているので、巣鴨にスペシャルゲストで来て頂きたいなんて一瞬頭を掠めたが、あまりにも恐れ多くて…それは無かったことにしよう。

ダンテスは同王座を5度…このベルトは4度巻いた。

 金曜日のメインエベントはやはりAWAの世界ヘビー級チャンピオンベルトだろう。なぜ、あのベルトが日本で“ニックベルト”と呼ばれるようになったのか、金曜日にはその意味を解き明かすことにしたい。ニック・ボックウインクルと言えば“あのベルト”というイメージ的な問題ではない…ちゃんとしっかりしたわけがあるのだ。AWAと言えば“帝王”バーン・ガニア。1960~91年の歴史の中でAWA世界王座にガニアが就いた回数は10度…在位期間は通算4677日のダントツ。ニックは5度の獲得で2990日間の在位。その次がマッドドッグ・バションの3度、通算776日の在位。この数字でわかるように1位と2位、2位と3位の差は大きく開いている。3代目AWA世界ヘビー級ベルトの“ニックベルト”が完成した時期は現在でもはっきりしていない。恐らく1975年末から76年にかけてで、75年11月8日、セントポールでのニック初戴冠の時にはベルトが無かったのではないと思われる(その事についてはイベントで触れる)。それで最後に使われたのが1986年6月だから、使用期間は約10年である。NWAの世界チャンピオンのようにほぼ毎日が防衛戦ではなかったと思うが、ニック自身がチャンピオンとしてメインを張ったシングル戦がざっと数えて556試合。あくまでではあるが、これに近いような数字の防衛戦をしていたのではないかと思われる。これはあくまでニックベルト時代の話である。続いてリック・マーテルの122、スタン・ハンセンの43、バーン・ガニアの18、ジャンボ鶴田は16度防衛、オットー・ワンツの7となる。では、ガニアが1960年から使用した初代ベルトの140回と、1960年代後半からの2代目ベルト(レジー・パークス製)の229回、これにニックベルトの18を足すと、帝王の防衛回数は計387回になる。ニックはニックベルトの556回に、後にカート・ヘニングとジェリー・ローラーが巻いた4代目ベルトでの防衛数42を加えると598回となり、ガニアの387を遥かにオーバーする。

ガニア10度目の戴冠はこのベルトだった。

ちなみにガニアやニック以外の歴代王者たちの防衛回数も調べてみよう。60年代王者のジン・キニスキーが3回、ミスターM(ビル・ミラー)が40回、クラッシャー40回、フリッツ・フォン・エリックが1回、バション133回、イゴール・ボディックとブルーザーは0回、ドクターX(ディック・ベイヤー)が3回。87年以降の晩年王者たち…カート・ヘニングが51回、ジェリー・ローラーが53回、ラリー・ズビスコが22回、マサ斎藤が1回となる。

やはりこのベルトはこの男が似合う。

続いてニックベルトへチャレンジした各挑戦者たちの挑戦回数をザックリ調べてみる。すると意外やニック自身がトップで53回、次がグレッグ・ガニアの50回、ビル・ロビンソンが44回、クラッシャー・リソワスキーの37、ジム・ガービンが34、ジム・ブランゼルの27、マッドドッグ・バションとワフー・マクダニエルとリック・マーテルが26、ティト・サンタナの24、ジェリー・ローラーの22、レイ・スティーブンスとハルク・ホーガンが17、バーン・ガニアとシーク・アドナン・アル・ケーシーが15、バロン・フォン・ラシクとクラッシャー・ブラックウェルが13、ブラッド・レイガンズとマイケル・ヘイズとジャンボ鶴田が11回。アンドレ・ザ・ジャイアントが10、ルーファス・ジョーンズとサージャント・スローターが9、ディック・ザ・ブルーザーとラリー・ヘニングとマサ斎藤が8…と続く。タイトルの獲得者の変遷だけでなく、ベルトに挑んで散ったチャレンジャーたちの顔ぶれを見ると、AWAが味のある強豪たちの揃ったエリアであったかがわかる。ニックベルトには、そうした夢破れた挑戦者たちの熱き思いも込められている。そんなことを思いながら、物言わぬ歴史の証人・歴戦の勇士をじっくり眺め、ずっしりした感触を味わって欲しいと思う。さあ、いよいよ明後日!WWEアーカイブ部門も喉から手が出るほど欲しがったアメリカマットの至宝の御開帳だ。

 

 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅