ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第569回】鳥取の追憶 (3)

 2週続けた“鳥取シリーズ”も打ち止めの予定だったが、記録マニアのTさんから「鳥取で面白い試合があったんですよ」というご連絡をいただいた。そこで今週も急遽鳥取ものの第3弾として、それを紹介することにしよう。1957年9月21日だから、私がまだ0歳10ヵ月だった頃のお話。山口利夫の「全日本プロレス協会」が鳥取で単発興行(?)を打ったというのである。Tさんは鳥取の地方紙から、その記録を発見したという。つまり全国紙には載っていない現地の人しか知らない試合ということである。

“満鉄の虎”と呼ばれる柔道の強豪だった山口利夫六段は大相撲出羽海部屋に入門するも翌年に廃業…その後にプロ柔道からプロレス修行をして、54年4月に大阪を拠点に「全日本プロレス協会」を旗揚げする。ところが山口は55年1月に力道山に挑戦して敗戦。私の誕生日、56年11月30日に大阪府立体育会館で力道山への挑戦者決定戦で東富士に敗れて落ち目となり、故郷三島の山口道場に引っ込むが、57年には団体として機能せずに崩壊といわれる。正確な崩壊の時期はわからないが、この鳥取大会は、その同年秋に行われているので、崩壊はこの後か…。

山口利夫は東富士に敗れて転落していく。

 場所は鳥取市営球場。調べると鳥取市東町2丁目にあった鳥取球場は甲子園球場開設の翌年、1925年(大正14年)に出来た古い野球場である。その日、エースであるはずの山口はセミに登場し、P・Y・チャン(トージョー・ヤマモト)と対戦している。55年7月にチャンは山口のオファーで初来日している。今までの記録にはなかったことなのだが、この57年秋にもチャンは来日していたということになる。とすると、「全日本プロレス協会」は、この鳥取だけでなく、他にも地方で転々と興行をやっていたのだろうか…。ちなみに58年5月31日と6月1日、大阪扇町プールで行われた山口の引退試合にもチャンは参戦している。山口のラストマッチは山口&吉村道明&長沢日一vs木村政彦&芳の里&チャンの6人タッグで、ゆかりの選手の協力あっての引退試合であった。

山口と仲が良かったP・Y・チャン。

さて、この鳥取球場の「全日本プロレス協会」のメインのカードはというと、山崎次郎&三山三四郎vsグレート東郷&ロッカー・オストンであった。このオルストンという選手は何者か不明。ここに出て来るグレート東郷はあの東郷ではなく、ハロルド坂田のことだろう。坂田は10月7日から始まるルー・テーズ初来日の『プロレスリング世界選手権シリーズ』に来日して年内日本に滞在しているので、早めに日本に来ていたことになる。そうだとすると、ここでも日本プロレスが山口に協力していたことになる。山崎次郎は実業団相撲出身で、濱田山の四股名で芝田川部屋から高砂部屋で7場所やって廃業して山口に師事してプロレスラーになったといわれる。三山は三四郎と名乗るからには柔道出身だったことが推測できる。「ウエート別統一日本選手権大会」に出場し、大坪清隆(アジア・プロレス所属)に敗退という戦績だけで、前歴等は不明。ただし、彼が鳥取出身ということだけはわかっている。つまりこの鳥取大会は三山三四郎のご当地場所だったということになる。

試合は2-0で三山&山崎組が勝利している。メインで唯一メインエベンター級だったハロルド坂田は4年後に鳥取を再訪することになる。61年6月25日の鳥取市体育館の日本プロレス『第3回ワールド大リーグ戦』第43戦…ここで坂田(トシ東郷)は遠藤幸吉と30分引き分けている。ちなみにカール・クラウザー(ゴッチ)は芳の里と戦い、逆エビ固めで勝利した。

ハロルド坂田は鳥取に2度登場。

この57年9月の山口利夫の鳥取興行の入りは、現地新聞の記録によると3000人。野球場で3000は寂しい(20日のアスレチックスvsオリオールズが2703人という42年ぶりの閑古鳥記録だったが…)。実は山口たちの1ヵ月前(8月22日)、力道山率いる日本プロレスが鳥取で初興行を打っていたのだ。まだ体育館がない時代だったから、恐らく同じ鳥取市営球場での開催だったのであろう。先々週も触れたように、この興行の記録が欠落しているので、対戦カードも、動員も不明だが、さすがに国民的英雄の力道山初見参、ご当地初のプロレス興行とあれば、相当の動員があったに違いない。ボボ・ブラジル(当時32歳)が初来日したシリーズで、メインでは恐らく力道山と黒い魔神がタッグで熱闘を展開したはずだ。大ヒーローの力道山がやって来た1ヵ月後に三山が帰郷してメインを張っても、さすがにそれは入らないよね…。

ボボ・ブラジルといえば、それから20年後に鳥取を再来襲している。77年10月19日、全日本プロレス『ジャイアント・シリーズ』第14戦、鳥取市立体育館。その日はテレビ中継で、メインが馬場vsブラジルのシングルマッチ(ノンタイトル)だった。この時、ブラジルは53歳。68年に馬場からインターナショナル選手権を奪った時の精悍さも迫力も消えていた。とはいえブラジルは五大湖周辺ではザ・シークやアーニー・ラッドとまだ抗争を続ける永遠のベビーだというのに…。

日本テレビプロレス中継より。

ところでみなさん、「鳥取の飢え殺し」(かつえごろし)って知っていますか。今から442年前、織田信長から中国地方の攻略を命じられた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が吉川経家を城主とする鳥取城を完全包囲して兵糧攻めにした時の事。籠城する城兵と農民は兵糧が尽きて馬や雑草、壁土まで口にし、餓死者が続出…ついには死人や負傷して動けない兵の人肉を食べたと伝わる。まさに地獄絵図とはこの事、鳥取は日本の歴史上最も凄惨な籠城戦の現場だったのだ。人肉とはいわないが、ブラジルが花束をムシャムシャ食い、花束嬢に襲いかかろうとする様が画面にアップになった時、68年の魔神をオンタイムで知る私は「ああ、ジ・ジ・地獄だ!」と思った…。

さて、来週の水曜日(5月4日)はGW真っ只中。「闘道館」での『マッハ隼人復活祭』(ヒバ・ラ・ルチャVol.44)の当日。2年ぶりにみなさんの前に話できるのを楽しみにしています。ただ、それに備えるため来週にコラムはお休みさせてもらいます。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅