ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第661回】土佐のプロレス(2)

先週からの続き。風がビュー、ビュー吹いて、高知の山は雪だった。高知県民ホールの後に私は高知県立県民体育館へ行った。体育館は路面電車「さとでん」の桟橋通り二丁目駅のすぐそばにある。私はここに二、三度取材に来たことがあるので、建物の前に来て「ああ、懐かしい!まだあるんだあ」と現役であることに感激した。定礎を見ると昭和47年8月25日とあったので、完成は1972年夏。今夏で52歳となる年季の入った体育館だ。プロレスは73年まで県民ホールを使用していて、最初にここを使ったのが新日本である。74年1月8日、『新春黄金シリーズ』第4戦がそれ。メインは猪木&柴田vsトニー・チャールス&マイティ・カランバ。セミが坂口vsピート・ロバーツ。それよりも客を沸せたのが、初来日の大巨漢双生児マクガイヤー・ブラザースだったはずだ。セミ前に小鉄&小沢を圧殺している。全日本は同じ年の4月27日に初使用。『第2回チャンピオン・カーニバル』の準々決勝で、馬場vsキング・イヤウケア、デストロイヤーvsブッチャー(両者失格)があって、巨人戦の間隙をついて土曜夜8時に生放送されている。恐らくこれが高知からの初のTV中継だと思われる。

高知県民体育館は昔のままの外観。

高知は新日本よりも全日本のイメージが強い。新日本がその後、76年11月、77年5月、80年10月と不定期だったのに対して、全日本は毎年チャンピオン・カーニバルの時期にここを使用する。75年にはジン・キニスキーvsミスター・レスリングという好カードも実現したし、77年の大会には馬場vsデストロイヤーもこの県立体育館だった。この年の『オープン・タッグ選手権』では馬場&鶴田vsビル・ロビンソン&ホースト・ホフマン、ドリー・ファンク・ジュニアvsラッシャー木村というカードが組まれ、年2度の高知が定着していく。78年の『最強タッグ』ではファンクスvs大木&キム・ドク、ニック・ボックウインクルvsザ・シークが実現。この時、馬場さんにガイジン係とレフェリーを頼まれたウォーリー山口がプロモーターの小松敏雄氏(日本プロレスのリングアナ)から正月に力道山映画をやるという話を聞いて竹内さんに報告…それで私が映画を観に行くことになったわけ(それは先週書いたよね)。こうした状況を踏まえると、小松氏は新日本旗揚げ時に協力しているが、次第に馬場さんへの協力関係を強めたように思われる。

魔王vs呪術師は高知で両者失格。レフェリーはハル・ササキ。

79年9月5日には鶴田&ミル・マスカラスvsボボ・ブラジル&ブッチャーというカードも組まれた。昔のよしみで小松氏は「いいカードをお願いね」と馬場さんに言えたようだ。81年のチャンピオン・カーニバルでは鶴田vsタイガー戸口の公式戦が組まれ、「小松さんが“彼らにあの名古屋の時のようなフルタイムの試合をやらせてよ”ってと馬場さんにネジ込んで、それが通ったんだ」と戸口さんが証言している。80年1月11日には鶴田vsロビンソンのUN選手権がここで行われた。もちろんテレビマッチ(翌日オンエア)。それも小松さんのプッシュがあって実現したのだろう。このUN戦で小松さんが特別にリングアナウンサーをしている。60分3本を60分1本と言ってしまったのは、ご愛敬…(すぐ気づいて訂正)。小松さんの懐かしい美声に、地元高知のファンだけでなく、テレビを観ていた全国のオールドファンは喜んだと思う。

鶴田がロビンソンと60分ドローでV12。

この年の県民体育館は大忙しだった。新日本が続く。3月19日大会では藤波がドラゴン・スープレックスでレフェリー・ストップ(両肩が着かないと高橋がストップする)。それで敗れたアンヘルは負傷としてことで高知からメキシコへ強制送還されてしまった。次は全日本、4月25日にやった馬場vsシークがジャイアント馬場の3000試合達成の試合であった。6月1日にはここで具志堅用高vsマルチン・バルガス(チリ)のWBA世界ジュニアライト級タイトルマッチが行われ、8回KOでカンムリワシが12度目の防衛に成功している。この年は全日本が3回高知に来た。12月5日の最強タッグではファンクスvsブッチャー&キラー・トーア・カマタ、ニック&ジム・ブランセルvsロビンソン&レス・ソントンという通好みの公式戦が組まれている。

坂口&長州はサモアンズとドロー防衛。

私が日本スポーツ出版社に入社した81年1月。23日に新日本が初めて高知でタイトルマッチをやった。坂口&長州vsザ・サモアンズの北米タッグ。でもこれはセミで、メインは猪木&藤波vsケン・パテラ&ジ・エンフォーサーであった。この高知での北米タッグは1-1から両者リングアウトのドロー防衛。これは最終戦、後楽園ホールで再戦するための煽りであった。ちなみにその後楽園の北米タッグもセミで、メインは猪木vsボビー・ダンカンだった。猪木&坂口ではなく坂口&長州の北米タッグではメインを張れないということが露呈してしまったような感じ…。だが、インター・タッグは違う。82年10月9日の高知で馬場&鶴田vsブルーザー・ブロディ&ニコリ・ボルコフのインター・タッグが組まれ、こちらは堂々のメインであった。というか、新日本はアントニオ猪木がメインでないと、ファンもプロモーターも、納得いかないということなのだろう。

館内は県体育館らしくとても広い。

さて、回顧はこの辺にして、懐かしい体育館に入ってみよう。懐かしいといっても、私が何の試合を取材に来たのか、まったく記憶にない。ただ、外観、入口、エントランスなどを見ると「来た、来た、ここ」という記憶だけが蘇る。調べる気力がない…。館内は老朽化したので2013年に改修されたようだ。アリーナはバスケットボールのコートが2面取れる広さで、イベント時には約3000席が組め、コの字の2階席は1572席あるので、満タンだと4600人近く入る。小松さんが力をいれたであろう鶴田のUN戦や具志堅の防衛戦の時などは超満員になったことであろう。2階の展示スペースには新日本の選手たち(誰だか読めない…)や小橋建太のサインが飾られていた。新日本は『WORLD TAG LEAGUE』で昨年12月4日にここに来たばかり。ここと新日本は49年間に及ぶ、長いお付き合いということになる。私の四国の旅はまだ続く…来週はうどんの美味しい高松へ行きましょう。

 さて、GスピリッツVol.71で先行予告したように次回のイベントが決定しました。ゲストは原悦生カメラマンです。46年間、世界中を飛び回ったESSEI HARAでないと知らない㊙話と㊙写真が見聞できますよ。是非、お越しください。

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