ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第662回】高松のプロレス

四国の旅は佳境に…。息子と昨年から続けてきた八十八番巡礼は香川県さぬき市の大窪寺で結願(コンプリート)した。

息子は八十八番を結願。私は2巡目。

その前日は高松泊だった。高松は四国の玄関口と言われ、1988年に瀬戸大橋が完成するまでJR宇高連絡船により岡山県宇野と結ばれていた。それまでプロレスの巡業も、本州から四国に渡るのは大半がそうしたフェリーや高速船であった。この港町でプロレスの興行が最初に打たれたのは1954年9月6日の高松市立球場(力道山&遠藤幸吉vsハンス・シュナーベル&ルー・ニューマン)。55年8月4日からは高松市体育館が使用されている(力道山&遠藤vsヘスス・オルテガ&バッド・カーティス)。ちなみに翌日も同所で連戦。69年からは高松国際スポーツパレスに移行する。ここは高松国際ホテルが66年に建設されたアイスホッケー場だ。プロレス初使用は4月19日、猪木が優勝した『第11回ワールドリーグ戦』の第12戦。公式戦ではゴリラ・モンスーンが星野を、大木がペッパー・ゴメスを破っている。70年代頭まで高知や松山と違って高松ではタイトルマッチが行われていない。72年7月1日、市内の松島町1丁目に高松市民文化センターが完成した。ここの別館大ホールでプロレス興行を最初に打ったのが全日本であった。73年5月31日、『ブラックパワー・シリーズ』第14戦。馬場&マティ鈴木vsブッチャー&ルーファス・ジョーンズがメインで、セミはデストロイヤーvsジ・アラスカン。でも、この会場をメジャーにしたのは新日本だろう。新日本が最初に使用したのは同年10月2日。メインは坂口&小鉄vsビクター・リベラ&ウエイン・ブリッジ、セミが猪木vsアナコンダ。偽エル・サントは小沢に勝っている。これだとまだ重要視されてないように見えるが、新日本は翌年からほぼ年に2度ずつ高松で興行を打っている。それは高松駅前の「やぎ」という喫茶店を経営していた植田巌氏夫妻が日本プロレス時代に大阪空港のロビーで猪木さんに親切にされたことから縁が始まっている。植田氏は『瀬戸内プロ企画』という興行会社を作って新日本を支援したのである。そのため猪木新日本はタイトルマッチこそ組まなかったが、ワールドリーグやMSGシリーズの天王山とも言えるカードを植田氏に提供した。

在りし日の高松市民文化センター。

74年から11年間の新日本高松大会の好カードを拾ってみよう。74年4月25日、『第1回ワールドリーグ戦』の公式戦は猪木vsスタン・スタジャック。5ヵ月前にスタジャックはモラレスに勝ってWWWF王者になっている。75年5月9日の『第2回ワールドリーグ戦』では坂口vs大木の遺恨対決、76年5月7日の『第3回ワールドリーグ戦』では坂口vsストロング小林とペドロ・モラレスvsキラー・カール・クラップの公式戦が組まれた。少しずつではあるがカードが良化している。77年はワールドリーグが早期開催だったのであらかじめ植田氏が会場を押さえていた5月27日は『ゴールデン・ファイト・シリーズ』に…。この時のカードは猪木vsクラップ、アンドレvsストロング小林だった。『第1回MSGシリーズ』は78年5月26日が高松。公式戦はアンドレvs坂口、藤波vs上田馬之助。本当に良くなるのはここから。79年6月1日、『第2回MSGシリーズ』は猪木vs藤波を用意したが、藤波が負傷欠場のために猪木の不戦勝に。そのために急遽、特別試合のメインで猪木vsアンドレをやった。他の公式戦はハンセンvs坂口とアンドレvsカネック。つまり大巨人は1日2試合したことになる。すごかったのは80年5月30日の『第2回MSGシリーズ』であろう。新日本は前年のお詫びで猪木vs藤波を提供している。セミがアンドレvsハンセン、その下がバックランドvsホーガンなのだから、こんな豪華なカードは蔵前だって観られないよ。『第3回MSGシリーズ』の高松は81年5月29日。猪木vsシンが公式戦のメインだったが、セミでバックランド&ローデスvsハンセン&ホーガンという豪華タッグが組まれている。この年は『第2回MSGタッグ・リーグ戦』が12月2日に高松で行われ、公式戦外のメインでは猪木&藤波&長州vs木村&浜口&寺西というカードが組まれた。今になってみれば贅沢な6人タッグである。82年こそ猪木の負傷欠場で高松のカードはしょっぱくなってしまったが、翌年5月27日の『第1回IWGP』の高松で猪木vs前田が組まれたのはあまりに有名すぎる。

猪木vs前田は高松で一度のみ。

新日本の春の祭典の天王山…このパターンが続いたのは84年6月1日まで。この時の公式戦で長州がアンドレをボディスラムで投げている。大塚直樹が植田氏と特に懇意にしていため、ジャパンプロのプレ旗揚げにここを使用。それから85年以降、高松=新日本というイメージは消えてしまう。故に同年6月5日の全日本でマイティ井上からダイナマイト・キッドにNWAインター・ジュニアに王座が移動し、全日本色が強くなっていく。これが高松初のタイトルマッチか? 私はこの高松市民文化センターには何度も取材に行ったので思い入れが深い。市民センターの入口付近に高松空襲(1945年7月4日)のことが展示されているスペースがあって、会場入り前にいつもそこに立ち寄っていた。高松市は空襲警報が解除された直後に米軍のB29が116機飛来。不意打ちを食って2万戸近くが延焼し、1300人以上が亡くなった。そこの展示で日本本土の市町村430ヵ所に空襲を受けたのを初めて知ってゾッとした。だからこの会場で観たプロレスよりも私にはその印象のほうが強烈であった。今回の旅で、朝方にこのエリアを訪れてびっくり…そこにはまったく別の建物がドンと建っていたからだ。「たかまつミライエ」という名の「高松こども未来館」である。聞けば2013年3月に市民センターは閉館し、39年の歴史に幕を閉じていた。またプロレスをやっていた別館のあった跡地は「高松市医師会館」に…。私には大事なプロレス古戦場が消えてしまったことより、あの空襲の展示施設が見られなくなった事がショックであった。あれこそ、未来を支える子供たちにしっかり見せるべきものだったと思う。なんてそう思ったら、この施設内の“平和祈念館”という所に高松空襲を伝える展示が再現されていることがわかった。とりあえずホッとした…。

高松市総合体育館の外観。
第一競技場はバスケ2面の広さ。

さて、私はその後、福岡町にある高松市総合体育館へ足を運ぶ。86年9月に完成した四国最大の体育館である。外観を見て「ああ、ここにも取材で来たことあるなあ」いう記憶が蘇る。市民文化センターは80年代まで使っていたけど、90年代からはここだったかなあ…。ぎりぎり昭和製だけど、ここまで新しいアリーナだと私個人の興味からやや外れてしまう。敷地も広く、第1競技場と第2競技場の2つの棟が連結する巨大施設だ。去年8月1日には第1競技場で『G1クライマックス33』が行われた。メインはオカダ・カズチカvsKENTA。今年2月14日にはここの第2競技場で新日本の『ファンタスティカマニア』が開催されている。ずいぶん時代が変わったものである。空襲から9年後に力道山が高松に来てプロレスで市民に活力を与えた…そこから70年経った。新日本が高松に進出して実に51年が経過している…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅