ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第660回】土佐のプロレス(1)

Gスピリッツの最新号(Vol.71)は読んでいただけましたでしょうか。まだの人…ゆっくり時間を掛けて読んでください。どれも腐るネタではないので…。私は脱稿後に中国地方と四国を旅していました。車で走った距離は3300㎞…それは東京~福岡を1往復半の距離です。登った無名の山城は23城…累積標高で約4000mを登ったことになる。お陰で毎日毎日いい運動が出来ました。それ以外に息子と一緒に四国八十八番のお遍路旅もした。去年の続きである。お遍路再開の地が高知市。息子が飛行機でやって来る前日に私は高知市内で2ヵ所のチェックポイントを訪ねる。1つが高知市県民ホール。もう1つが高知県民体育館。

高知県民ホールは立派な建物。

昭和40年代にプロレス会場として使われていた県民ホールの正式名称は高知県立県民文化ホール。夕方だったことと、イベント開催中だったので時間的に事務所でいろいろ聞くことは出来なかった。でも私がかつてここへ来た時と同じ形の建物だが、恐らくリニューアルしたのであろう。真新しく見えた。私はプロレスの試合でこの会場に来たことはない。来たのは別の目的であった。会場前の通りの南国ムード漂う棕櫚の並木に遠い日の記憶が蘇る。1979年1月14日に竹内宏介編集長の指令により、ここへ来たのだ。その日、たった1日のみ『力道山世界制覇への道』という映画がここで上映された…それを観に来たのである。そのことを本誌ゴング3月号の「マニアックス特捜レポート」でリポートするため高知へ飛ぶ。私個人にとって3度目の高知だが、これが人生初の出張であった。主催者はかつて日本プロレスのリングアナウンサーとして鳴らした小松敏雄氏。リングアナ引退後、小松さんは地元・高知と愛媛などでプロモーターをしていた。「昔はよく正月に高知でプロレスをやっていたけど、最近、高知じゃタイトルマッチとかもないんで、別の意味でファンにサービスしたいんで…」。氏いわく、フィルムは岐阜のプロモーターの林藤一氏の所有するもの。「十数年前に新東宝配給で全国配給された後、フィルムは中国、九州を転々として5~6年前に高知で映画が後ハネした夜中に1度だけ上映されたみたいですよ」とのこと。

私が取材した県民ホールでの力道山映画。

ざっと内容を列記してみる。1960年4月、『第2回ワールドリーグ戦』の来日風景と入場式。吉村道明vsサニー・マイヤース、ホンブレ・モンタナ(正確にはオンブレ・モンターニャ=“山男”でしょ)vs豊登、ボブ・オートンvsハンス・ヘルマン、レオ・ノメリーニvsモンタナ、力道山vsフランク・バロアなど東京大会のダイジェスト。他にグレート東郷vsヘルマン、力道山&遠藤幸吉vsノメリーニ&モンタナ。力道山vsマイヤースのインターナショナル選手権、決勝戦の力道山vsノメリーニ…。この決勝は日テレにダイジェストで残っているが、他は映像としては超貴重なものだった。続いては62年4月23日、東京体育館での力道山vsフレッド・ブラッシーのWWA世界ヘビー級選手権初防衛戦。後半は「怒号・血刀の嵐」と題して『第5回ワールドリーグ戦』の特集。3月22日、前夜祭での凱旋帰国の馬場vs冷血鬼キラー・コワルスキー、サンダー・ザボーがフロントネック・チャンスリーで遠藤幸吉をKOした試合。翌日に開幕戦での力道山&馬場&東郷vsパット・オコーナー&ボブ・エリス&キラーXの6人タッグ。28日の名古屋のジノ・マレラvs豊登、力道山&馬場vsコワルスキー&オコーナーの6人タッグ。4月11日長崎の大木金太郎vsX、3月26日豊橋の馬場vsオコーナー、そして4月17日沖縄の力道山vsヘイスタック・カルホーンと24日大阪の力道山vsオコーナーのインターナショナル選手権。5月6日札幌での馬場vsマレラと力道山&豊登vsコワルスキー&フレッド・アトキンスのアジア・タッグ選手権。ここまでがモノクロで、最後が天然色フィルム(カラー)で、5月17日東京体育館の力道山vsコワルスキーの決勝戦。4部構成でトータル2時間40分の記録映画だった。暗がりで必死にメモしながら映画を観たのはこれが初めてのこと。断片的に現存する映像もあるが、ここでしか観られないレアなものも多く、今になって思えばとても貴重な時間だったと思う。

第2回ワールドリーグの貴重映像を観られた。

私は高知から東京に戻って原稿を書いて、その後にメキシコへせわしなく旅立ったという記憶がある。高知で最初に行われたプロレスは1955年8月6日の高知市営相撲場。力道山&東富士vsジェス・オルテガ&バッド・カーチスがメイン。次が58年10月7日。会場名はずっと不明だったが、力道山研究家の石田順一氏の調べによると、高知新聞に「高知市民プール」と載っていたそうだ。カードは力道山&ジョニー・バレンドvsドン・レオ・ジョナサン&スカイハイ・リー。県民ホールは力道山も試合をしていた。日時は59年7月29日。メインは力道山&豊登vsオルテガ&ミスター・アトミックだった。61年に日プロは県民ホールに3度も来ており、62年6月、63年4月まで力道山はここで土佐っ子たちを熱狂させた。64年は4月20日と11月26日の2回。後者では豊登&馬場vsクルト・フォン・ストロハイム&ビル・ドロモのアジア・タッグ選手権をしている。これが高知初のタイトルマッチだった。66年11月、67年6月の後は、68年から72年まで日プロは毎年、1月初旬にこの会場で試合をするのが恒例化していた。崩壊した73年は無し。69年3月18日、国際が初めて高知市に進出し、この県民ホールで選手権をやっている。草津&木村vsダニー・リンチ&パット・ローチのヨーロッパ・タッグ選手権の初防衛戦。しかし、これが最初で最後で、国際は崩壊するまで高知市へ来ていない。その後、国際が高知県に入ったのは遠く離れた中村市スポーツセンターのみ。やはり高知市は小松氏の強い地盤で、氏は日プロ崩壊後も新日本、全日本と協力関係にあったためか、もともと四国が強くない国際の入る隙はなかったようだ。

国際は1度だけ高知市に進出。

72年3月18日、『旗揚げオープニングシリーズ』第5戦、新日本はこの高知県県民ホールで興行を打った。メインは猪木&豊登vsドランゴ兄弟。大塚直樹氏いわく、「これも自主興行でしたが、小松氏の協力で出来た興行です。翌日の宿毛市宿毛小学校体育館も小松さんの協力があっての大会でした。宿毛は高知県の西の外れですから、電車や船を乗り継いで東京に戻ってくるのに丸2日かかりましたよ」。新日本は同年11月15日にも高知県民ホールを使用、次が翌73年5月16日で、新日本が使った最後。県民ホールの真の最後のプロレス興行は、それから半月後、6月4日の全日本。メインは馬場&大熊vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&サンダーボルト・カノン、セミがデストロイヤーvsグレート・マレンコ。これを最後にプロレスの興行は県民ホールから72年夏に完成した高知県民体育館へと移る。ここへは私も数度取材している。今回の旅で県民体育館へも行って来たので、来週はそれについて書こう。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅