ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第553回】81年のノート(2)

 表紙は現代の書籍としてはかなりグロである。メキシコにはかつて惨殺死体などを集めたマガジンを売っていたが、流血の少なくなった昨今のプロレス…編集人の佐々木クンが“流血写真好き”なのもあるけど、これも昭和プロレスらしくていいか…。それよりも40年前に師走の日本プロレス界を震撼させた一大事件…我々の記憶に強く刻まれている名場面だ。昭和プロレスファンに、この鮮血はありだ!

さて既にご承知と思うが、来週、12月22日(水)発売のGスピリッツVol.62のコンテンツは以下の通り。

[特集]

1981年の新日本vs全日本

[証言]

大塚直樹(元新日本プロレス営業部長)

原章(元『全日本プロレス中継』NTVプロデューサー)

佐藤昭雄 (全日本プロレス・マッチメーカー)

[回想録]

1981年4月23日 蔵前国技館

「バーニング・タイガー」誕生秘話

ヒロ(元ブレイン・ウォッシュ・バンド)

[対談]

ゴング編集部から見た

1981年の新日本vs全日本

清水 勉×小佐野景浩

[評伝]

“火の玉小僧”吉村道明

【前編】力道山が300万円で買った“バーン・ガニア”

[インタビュー]

髙梨正信(元リキレストラン料理長)【後編】

[刊行記念企画]

ファンの心に残るのは“入場曲”にあらず

昭和・平成プロレステーマ曲放談【前編】

木原文人リングアナ×コブラ

[アリーバ・メヒコ]

アルフォンソ・ダンテス

“悪魔仮面”の隣に咲いていた月見草

【前編】「ルチャの基本」でNWA世界王座に到達

[原悦生の格闘写真美術館]

第62回「赤いミイラ」

 大塚さんは今回で第7回となる連載の拡大版。ちょうど時系列で進行してきた話が1981年に入るところなので、ここぞとばかりに巻頭カラーに進出。イケイケの新日本プロレス大進軍の様が氏の口から飛び立出す。原章プロデューサーはジャイアント馬場のブレーン中のブレーンで、当時から日記(メモ)を付けていた方なので、81年の全日本反撃の狼煙の詳細が生々しく語られる。私と小佐野クンの対談にも、注目してほしい。81年のゴング編集部内の様子や今まで語られていないガイジン引き抜き事件と、その他、もう我々しか知らないさまざまな裏ネタを吐き出している。

 その対談では話していないけど、81年ガイジン引き抜き戦争の前夜のある光景を思い出した。80年別冊ゴング9月号(8月15日発売)では『まだ見ぬフレッシュな10人の強豪』として巻頭カラーで特集した。ポール・オンドーフ、リッキー・スティムボート、オースチン・アイドル、シーグフケイド・スタンスキー、ジェリー・ローラー、マニー・フェルナンデス、トニー・アトラス、ジョージ・ウェルズ、ポール・エラリング、ビル・ダンディというラインナップ。

80年別冊ゴング巻頭のオンドーフ。

 実はここで“ガイジン先に引っ張れ戦争”が始まっていた。誌面に最初に食いついたのが新間のオトウサン(寿氏)。

「おい、坊や、このオンドーフというのはいい選手なのか」。坊やとは新間さんが竹内さんを呼ぶときの名前。「オンドーフはオトウサンに勧めたいと思っていたアメリカで今、最も注目の選手ですよ」。「そうか、よしわかった。ウチはこれを取るよ」。そこからの新間氏の行動は早かった。フロリダからカロライナに転戦していたスター街道を走っていたオンドーフを電撃的に一本釣りし、10月10日開幕の『闘魂シリーズ』に急遽初来日させたのだ。その来日直前の8ミリ大会のゲストだった新間氏は「竹内の坊やに勧められオンドーフは開幕戦で藤波と当てます」とイベント内でカード発表した記憶がある。

 オースチン・アイドルは別冊ゴングで巻頭特集をした直後の8月21日開幕の全日本に初来日が既に決まっており、リッキーは暮れの最強タッグに初上陸した。エラリングはブッチャーがジャンプした81年4月に国際プロレスに初来日している。このようにゴング選定の全米トッププロスペクトたちが、各団体に振り分けられていったのだから、81年春先までの両団体は“平和”だったのだ。

ちなみにトニー・アトラスはWWFルートで82年3月に新日本へ、マニーは83年8月に全日本へ、ローラーは85年1月に全日本へ、ウェルズは87年2月に新日本へ、48歳になってしまったダンディは遅ればせながら92年5月にW★INGにそれぞれ初来日している。またメキシコ選手も新日本にアンヘル・ブランコ、アニバル、フィッシュマン。全日本にドクトル・ワグナー、ツウィン・デビルス。国際にエル・コバルデ、エローデス、ホセ・ルイス・メンディエタ。こうしたエトレージャたちが81年春までに分散されて初来日している。確かに81年4月までは波風ひとつ立っていない。

 さて、私の81年ノートを再び開いてみる。9月23日新日本田園コロシアム 24日雨天予備日、25日HOTEL ALEJANDORIA、26日CASA BETO en GUADALAJARA(グアダラハラのソリタリオの自宅)とある。これは私の田コロ後のメキシコ取材のスケジュールの冒頭部分だ。25日午後の便で私はロスへ飛ぶ。1時間後の別便でソリタリオもロスへ。ブラソスと脱臼して腕を吊っていたソラールは成田までビッグボスを見送りに来ていた。彼らの出発便は新日本の手違いで翌26日になってしまったのだ。

私は同じロサンゼルス空港の到着ゲートでソリタリオが出て来るのを待つ。そしてソリが着くとマイク・ラベールの事務所の人間もそこで待っていて、その彼の車に乗ってホテルへ一旦チェックイン。「金がもったいない。ツインだから、俺の部屋で泊れよ」とソリと相部屋に。このホテルの名前がアレハンドリアだったのだ。ダウンタウンのちょっと古びた由緒ある中級ホテル。恐らく、ジュリアス・ストロンボーの時代からロスに呼ばれた他地区の選手、外国人選手たちはここを定宿としていたのだろう。WWA→NWAハリウッドレスリングご指定の宿である(新日本勢はホテルニューオータニに使っていたようだが…ガイジンさんはホテルの良し悪しをあまり気にしない)。

そういえば、国際プロレス崩壊後、9月12日に高田馬場のビッグボックスで「マッハ隼人を送る会」なるイベントがあった。ゲスト出演した阿修羅・原はこの時点で「10月8日の蔵前では藤波とやります」と発言。マッハは早々の蔵前の新日本との対抗戦(タイガーマスク戦)を断っている。そしてそのイベントの直後にマッハはメキシコへ旅立った。後から来る高杉正彦を受け入れる準備をするように吉原功社長に申し付けられていたからだ。しかし、マッハさんはメキシコではなく、11月までロスに居た(業務用ビザが降りなかったのか?)。つまり私がロスに行った9月25日にマッハはロスに居たことになる。79年1月もそうだったけど、この時もロスでは擦れ違いだった。

自分のノートを追っていたら、特集や最新号から離れて行ってしまった。でも、同じ81年の話だし、1月23日の「マッハさんを偲ぶ会」のバナーも完成したことなので許されたし…。

ブロディとハンセンの合体した蔵前国技館が40年前の12月13日。翌14日(赤穂浪士討ち入りの日)の新聞各紙はこのハンセン移籍劇をセンセーショナルに報じる。ネットのない時代だから全国のプロレスファンは、1~2日遅れでこの報に接し震撼したはずだ。さらに15日、力道山18周忌の日に発売された別冊ゴングの表紙ではハンセン&ブロディが躍り、19日の日本テレビの録画中継で、誰もがその衝撃シーンを確認したはずだ。

そこからさらに40年遡った1941年12月8日には真珠湾攻撃で日本軍がアメリカに戦争を仕掛けている。太平洋戦争(大東亜戦争)の始まりだ。さらに40年遡った1921年12月13日には「日英同盟」の廃止が決定している。そして現在のパンデミック…異変は40年ごとに起きるのか。

すべてはここから始まった。

81年の場合、宣戦布告したのは新日本。事の発端は4月のブッチャーのジャンプからだったが、この「12月13日蔵前の変」こそ、リメンバー・パールハーバー…本格開戦の狼煙だったように思える。ガイジンの引き抜き戦争に限らず、タイガーマスク登場、国際プロレス崩壊など、いろんなことが立て続けに起きた最強魔界の年…リメンバー1981。あの激動の年を40年目に最終検証するGスピリッツVol.62。来週水曜日を是非お楽しみに。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅