ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第554回】光ちゃんの光と髪

 今日はGスピリッツVol.62の発売日だね。もう読み始めて貰えているだろうか…。「81年のノートは面白いですね。ロスにソリタリオと一緒に入った、その後の話は興味があります」というお問い合わせを頂いた。それはまた来年にでも、続きを書こう。

光雄さんのご挨拶。親子三代揃い踏み。

それよりも新間氏に「オイ、清水。お前、明日本門寺へ来ないか」と力道山59回忌の法要へ誘われる。力道山、そして清水家の菩提寺本門寺で…とあれば断るわけにはいかない(正直、我がご先祖様のお墓参りもご無沙汰していたのもあります)。そこには藤波辰爾、小橋建太、秋山準ら選手・関係者がズラリと参列していた。「朗報会館」での会食では主催する百田光雄さん、百田力さん親子の隣という絶好の席を得た。

 光雄さんは今年生死を彷徨った。1月に白内障の手術を受ける時、糖尿病が見つかり、さらに末期の肺がんが発見されたのだ。「プロレスをやっていたから痛みを我慢しちゃうのが仇になったのでしょうか。がんは肺から喉にも転移していました。先生からは手術も出来ないほどの末期状態なので諦めてくださいとまで言われたんです。それは最初、力にも内緒でした…」)

 保恵夫人は一縷の望みをかけて放射線と抗がん剤での治療を医師に頼む。3月8日に入院予定が脳梗塞を併発する恐れがあると、前倒しにして同月2日に入院したのが良かった。入院直後に脳梗塞を発症したからだ。「もしそれが自宅だったら助かってなかったでしょう。それが最初の奇跡です」と夫人は言う。そして30数度にわたる放射線治療の末にがん細胞は消えて5月に退院するに至る。光ちゃんに光が差した。「先生はもうサジを投げていたのに…それは本当の奇跡でした」と涙ぐむ。入院時に54キロにまで落ちた体重は75キロにまで回復し、今では息子の力と一緒にゴールドジムでトレーニングもしているという。

   確かにふっくらした顔つきで顔色も良くてお元気そうだ。

「食欲はあるんですよ。ただ硬いものは喉に通らないので、肉も魚もミンチならば大丈夫です。でも、レスラー時代から早食いなんで、“もしそれが肺に入ったらどうするの”と、いつもカミさんに怒られています(苦笑)」。光雄さんは美味しそうに「今半」特製のハンバーグをペロリ。

 私との間の席の息子の力さんが忙しそうに動くので、自然と光雄さんと私に話すチャンスが増える。

「あの時、親父が死なずに生きていたら? そうだなあ、あの翌年には引退していろんな事業にもっと力を入れていたか、政界デビューしていただろうね。それと親父が生きていたら、俺がレスラーになることを絶対に許さなかっただろうなあ。それは間違いない」。お陰様で書けないような父力道山の裏話もたくさん聞けた。私的にどうしても聞きたいメキシコネタを振る。

74年にメキシコ入り時から長髪だった。

「へーっ、アルフォンソ・ダンテスの話を書いたの。懐かしいなあ。タッグだったけどメキシコデビューの相手はダンテスでしたよ。モンテレイだったかな。僕がルードに転向してからは彼とよくタッグを組んだですよ。いい奴だったなあ。(82年に)全日本へ来た時に再会できて嬉しかったなあ」。ここからは一番大事な部分を衝く。それはメキシコでカベジェラ戦をして坊主になったのかという点。70年代半ば、力道山の子息が丸坊主にされたという事実は、いくら海の向こうとはいえ負の歴史として揉み消されても仕方ないネタ。それでも私は『エル・アルコン』誌増刊の74年度年鑑の全カベジェラ戦の記録からリサドウサンⅡが敗れてないかをチェックした。しかし、その名は無かった。

 

 落ち武者のようにあんなに髪の毛を伸ばしているのだから、きっと何処かで髪を切って大金を手にしているはずと思った。もしあったとすれば、知名度からして、それなりの大都市の会場、メキシコシティでもピスタ・レボルシオン級の会場でやっているはず。この年鑑に見落としの記録があったのか…。それがずっと気になっていた謎の部分だった。

74年7月21日、トレオンでのvsポロ・トーレス。

「メキシコでは髪の毛は切ってないですよ。切ったのはテネシー。プロモーターのニック・グラスの息子のジョージ・ボラスとやって負けて切ったんだよ」という意外な答えが返って来た。光ちゃんは74年2月末にメキシコ入りして12月まで滞在した。そして1月からはアマリロ地区で大熊元司、佐藤昭雄と合流。ゴージャス・ジョージ・ジュニア、スコット・ケーシー、ニック・コザック、グレート・ゴリアテ、マンド・ゲレロ、ミスター・レスリング(ゴードン・ネルソン)、ムース・モロウスキーらと対戦。ベビーの佐藤昭雄との日本人対決もしている。

 もう一度、その辺を確認するために光雄さんに昨日電話してみた。

「アマリロの後はオレゴンですよ。あそこに住んでいたマティ鈴木さんが日本へ行く間、代わりの日本人が必要だからということオレゴンに行ったんです。ミツ・モモタの名前でね」。確かにマティ鈴木は『第2回チャンピオンカーニバル』と『MSGシリーズ』で4月13日~6月13日まで全日本に出ている。

 アマリロとテネシー地区の記録はドクターFに調べてもらう。するとテネシーではモモタという名はなく、それらしきミスター・カミカゼという名が浮かび上がった。それを百田さんに確認する。

「いや、カミガゼじゃなくて、スズキですよ。オートバイのスズキ。昔、小鉄さんと星野さんがヤマハ・ブラザースをテネシーでやったみたいに、彼らの日本のイメージはオートバイメーカーなんですよ。だからニック・グラスが私に付けたリングネームはミスター・スズキですよ」。

長髪はさらに伸び続ける。vsセサール・シルバ。

 改めてドクターFの史料を調べると、あった、あった!ミスター・スズキの名前が。おおっ、6月3日、メンフィスでジョージ・グラスとシングルでやっているじゃないか。同28日のチャタヌガの再戦はノーコンテスト。つまり試合が荒れて抗争をやっていることが窺える。

「その抗争を盛り上げる時間が必要だったから、ヘアーマッチをやったのは夏頃だったのかなあ。場所はメンフィスだったか、チャタヌガだったか…。ジョージは長身だけど幅はなかったね。親父のニックの肝いりだから、売り出しの選手でしたよ。俺は敗れて長髪を切り落としてバリカンで刈ったら虎刈りになってねえ(笑)」

父力道山が髷を落としてから25年目。息子の光雄は髷が結えるほど伸び切った髪を切った。

「その頃にはジャッキー・ファーゴ、ジェリー・ジャレット、ノーベル・オースチン、ミスター・レスリング、ルーク・グラハム、カール・フォン・スタイガーなんかがいたなあ。デビューしたばかりのトミー・リッチもいたよ。その時、トージョー・ヤマモトはベビーで、ヒールの俺と試合した。親父の13回忌で帰国することになったら、帰り際にニック・グラスに“チケットを送るから、必ずまた来てくれ”言われたんだよね。俺も武道館終わったらテネシーに戻るつもりだったんだけどさ…」。

 2週間に1度の免疫治療を受けて帰宅したばかりなのに、光雄さんは楽しそうに昔話をしてくれた。喉の調子も良さそうだ。そこで閃いた。「その2年間の北米修行はしがらみなしの楽しい旅だったようでね。年明けにでも、そういう昔話を闘道館のトークショーでやりませんか」とお誘いする。「いいですね。あの頃は怖いもの知らずでしたからね。僕の体調次第ですけど、そういう修行時代のエピソードはたくさんあるんで、もっと思い出しておきますよ。それともう私しか知らないだろう父力道山の話をしたいですね」。ということで来春に、可能ならば、そういうトークショーを実現させたいと思います。お楽しみに…。

 さあ、今夜からみなさんGスピの読書地獄ですね。お風邪を召しませんように、メリークリスマス!

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