ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第548回】朗報と訃報

このコラムで「(1)」とかタイトルを付けて、来週の続編ネタを確保できてホッとしていると、何か突発的なニュースが飛び込む。先週、「銀幕の巨人(1)」を書いたら、その後に嬉しいニュースと悲しいニュースが続けて届いた。さすがにこれをスルーするわけにはいない。

嬉しいニュースは11月3日、ミル・マスカラスが秋の叙勲受賞(旭日双光賞)したこと。2017年のザ・デストロイヤーが同賞を受けて以来、外国人プロレスラーとしては2人目。受賞理由はわからないけど、プロレスを通して日本とメキシコの文化交流の懸け橋となったから、であろうことは間違いない。1970~80年代の日本において一般人も含めて「メキシコ人と言えば?」と問うと、真っ先に浮かぶ有名人はマスカラス。少なくともあの時代、「メキシコ=ミル・マスカラス」は、この国の常識だった。

1971年初来日したマスカラスはメキシコの顔。

今回の外国人受賞は53ヵ国の124人。「メキシコから誰を…」となった時、やはりマスカラスとなったのだろう。日本政府の誰がどう選んだのかは知らない。あるいはメキシコ領事館からの推薦なのか。そこに天皇陛下の御意思も含まれているのだろうか…。天皇陛下が皇太子になる以前の浩宮様の…1980年代だったと思う。御兄弟(現・秋篠宮殿下と)一緒に大のプロレスファンだったようだ。日本テレビからプロレスの録画ビデオテープが宮内庁を通して贈られたとか、ゴングも…なんていうことも耳にした。もしかしたらマスカラスがお目当てだったのではなんて、想像もする。秋篠宮殿下がご公務でメキシコへ行かれた時に「プロレスが観たい」と言われたとか…。そうしたことをまとめると、マスカラスは皇室からの推薦なのではないかと勝手に想像してしまう(きっと陛下は仮面貴族にお会いになりたいはず…?)。

マスカラスにお祝いの連絡を入れてみた。「ありがとう。すごく嬉しいよ。日本へは行きたいけど、行かない。行けないよ。コロナで隔離期間とか拘束もあるし、感染とかいろいろ問題も多い。残念だけど断念したよ」とのこと。デストロイヤーの場合は健康状態がすぐれず、翌年、地元のバッファローでニューヨーク総領事から勲章が伝達された。恐らくメキシコの日本大使館で叙勲伝達式が行われるのではないだろうか。

父親の勲章。これに似たのを授与されるのか。

私事だが、私の父親も叙勲している(勲五等瑞宝章)。1990年の秋だった。東京大学医科学研究所付属病院の放射線技師長として40年務めた功績を認められてのことで、皇居へ行って海部俊樹総理大臣から勲章を受けている。「俺が死んだらこの勲章、売ってもいいぞ」と笑って言っていた父だが、死して16年経った今でも自宅に額装して飾ってある。親は叙勲を受けても、この子はというと、メキシコで受賞した「最優秀外国人記者賞」止まりとは(情けなや…)。

「そうかトマスのお父さんも叙勲しているのか」とマスカラスが感心。私の父もマスカラスのファンだった。その母…明治生まれの祖母もマスカラスがお気に入り。私の家族だからということもあるけど、それだけマスカラスは日本人の心を打たせたメキシコ人だったといえる。それもそうだろう、71年など金曜日と月曜日の夜8時にはマスカラスの試合が19回も流れた。時代が時代だけに家族団らんテレビの前でそれを観ていたわけだから…。「メキシコ=ミル・マスカラス」は当然だった。ともかく、めでたし、めでたし、アロンさん、おめでとうございます。

1979年10月高萩で日本デビューしたマッハ隼人。

 訃報のほうも突然やってくる。マッハ隼人(肥後繁久)さんが8日朝、亡くなった。実は2年前にマッハさんはロサンゼルスから故郷の鹿児島県山川町に帰っていた。それを知る人は極めて少ない。

私は2019年3月、九州の旅の途中に鹿児島県山川町の肥後家の実家を訪れた。車で約1時間半離れた鹿児島市内に住んでいるマッハの弟さんが週イチで実家に帰って来ていて、その日はお留守だった。お隣さんに声を掛け、「繁久さんがロスから帰って来たいと言っているらしいです。その事を弟さんに伝えてください」と伝言して名刺を置いて立ち去る。

2年前にマッハさんの鹿児島の自宅まで行ってみた。

暫くして弟さんから「やっと兄と連絡が取れて帰国することになりました」という連絡があった。マッハさんが帰国したのは6月だった。目も足も不自由な身…ロスからは九州人の旅行者の方が付き添ってくれてやっとのことで帰って来られたようだ。ロスの老後施設を出て一時行方不明になっていたこともあり、ご家族は死んだのではと、もう諦めていたようだ。それが本当に生きて帰って来たのでさすがに驚かれたという。

私はマッハさんのトークショーをやりたいと思っていたが、本人は1日おきに透析をしていたし、足元もおぼつかないというので、どうやって東京まで連れてくるか苦慮した。本人にも伝わってはいたが、ご家族は「さすがに東京へは…」と難色。それならば、こっちから出張か、リモートもあるかなど考えていたら、このコロナ禍になってしまい、それどころの話ではなくなっていた。コロナが収束したら、次の段階へ話を進めようと思っていた、まさに矢先、まさかの訃報だった。

 

 マッハさんと一番親しく交流していたのがかつてファンクラブをしていた国枝一之さん。帰国した直後に国枝さんはマッハさんに会いに山川町へ行かれている。その時は脇腹を骨折していてゲットリしていたらしい。弟さんからのその後の話では、転倒を何度もして腕、足腰などを骨折し、そのたびに入院退院を繰り返していたという。先月も転倒して入院し、退院したら施設に入る予定だったようだ。患っていた肝臓等の臓器にも何かが影響したのか、月曜日の朝に容体が急変して亡くなってしまった…のである。享年70歳。

 マッハさんと私の付き合いは国際に帰国した1979年10月からで、今年でもう42年になる。マッハさんからは私の知らない中南米のいろんなことを教わった。白金台の我が家に遊びに来てくれたこともあったし、逆に私も日吉のアパートにお邪魔したこともある。とにかくいろんな思い出があって、すべてをここで書くことは不可能である。

2013年ロスの施設でのインタビュー当時の写真。

2013年、Gスピリッツ27号と28号ではロスに国際電話をし、ロングインタビューを掲載している。これがラストチャンスと思い、マッハさんからすべてを聞き出すべく、調べに調べてアタック。引き出せる限り、引き出した力作だった。追悼の意味を込めて、もう一度読み返していただければと思う。そう、あれ以上のインタビューは後にも先にもないという自負がある。マッハさん自身も本を手にして「よくぞここまで…」と、とても満足されていた。

 また3年前に監修した『国宝級マスク』でも「マッハ隼人現存マスク大集合」という企画を盛り込んだ。それも山川町のマッハさんの手元にも届いて喜んで下さったようだ。「スーパースターだらけのマスク本の中に、なぜマッハさんなんですか」という声もあった。でも、格付け云々ではなく、私はマッハ隼人が国際の中にあってファンにとても愛された選手であることを知っていた。いろんなマスクを被って子供たちを喜ばせていたことも知っていた。人柄の素晴らしさもファンに伝わっていた。そういう意味でタイガーマスク以前の隠れたアイドルだった。だから、あそこはマッハ隼人でなければならないと思ったのである。

 マッハさんが亡くなったのはとても残念ではあるが、一つだけ救いがあった。若い時に日本を離れて放浪を繰り返し、サバイバルを続けて来た人で、日本でプロレスをしていたのは彼の人生のほんの僅かな時間でしかなかった。引退後の彼の人生も半端でなく長かった。そういうマッハさんが故郷で、家族の許で、息を引き取られたというのが唯一の救いだったと思うのである。コロナが本格的になっていたら、ロスから帰って来られなかったであろう。

指宿フェニックスホテルで行われた母親の100歳を祝うパーティーに出席できたのだって、日本に帰って来たから可能だったこと。ほぼ半世紀、親に心配をかけ海外に出た切りの息子がやっと帰って来て、最後に百寿の母を祝う場に立ち会う…それって泣ける話じゃないですか。長い長い旅路の果ての帰還、そして天国への旅立ち…マッハさん、本当にご苦労さまでした。合掌。

 

出来たらやろうとしていて出来なかったイベント。もし叶うことならば、それを「マッハ隼人を偲ぶ会」としてやりたいな…と思う。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅