ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第549回】銀幕の巨人(2)

 先週は朗報と訃報があったので飛んでしまった「銀幕の巨人」の続き。前回はジャイアント馬場が出演した『喜劇 駅前茶釜』と、馬場さんがキャンセルした『007 私を愛したスパイ』について書いたので、今回はその続編。

 巨人で有名人と言えば、“動くアルプス”の異名をとったプリモ・カルネラ(1906~1967)が浮かぶ。プロボクサーとして1933年に世界ヘビー級王者となり、1941年にプロレスラーに転向した205センチの長身を誇るイタリアンだ。カルネラは世界王者になった1933年に『世界拳闘王』という作品に同じ世界王者になっているマックス・ベア、ジャック・デンプシーらと一緒に出演した。

プリモ・カルネラは巨人界の二刀流。

 1955年7月には初来日して力道山とも対戦した。この頃、カルネラは数本の映画に出ている。『豪傑カサノヴァ』、『炎と剣』…どちらもアメリカ映画で来日前年に日本でも公開された。来日直前に本邦公開された『文なし横丁の人々』はイギリス映画(酷い和名だなあ)。これらがカルネラの来日にどんな影響を与えたのかはわからない。私自身生まれる前年の事なのでプロレスも映画も観ていない。そんな映画よりもボクシングの元世界ヘビー級王者で現役の巨人レスラーというだけで、バリューは十分過ぎる。

 来日翌年1956年8月に劇場公開された『決闘肉弾戦』(Wrestling Jamboee)という作品にもカルネラが出ている。当時としては珍しいプロレスをテーマにした作品で、アントニオ・ロッカも出演していたようだ。1959年のイタリア映画『ヘラクレスの逆襲』(ピエトロ・フランシスキ監督)にもカルネラは出演している。肉体派男優のスティーヴ・リーヴスが主演で、これは劇場ではなくテレビの洋画劇場か何かで観たような記憶がある。1956年のハンフリー・ボガード主演の『殴られる男』は、カルネラこそ出演していないが、カルネラがモデルとなった小説の映画化だった。

リー・メジャースとビッグフットのアンドレ。

 巨人といえば、アンドレ・ザ・ジャイアントも映画に出ていた。『プリンセス・ブライド・ストーリー』(米国1987年作)という作品ではフエジクという名のいい者の巨人の役。それ以前ならば、テレビ映画のリー・メジャース主演『600万ドルの男』の中で、雪男の役で出ていた。ちなみにこの時のリー・メジャースの役名は「スティーブ・オースチン」(ストーン・コールド?)だった。アンドレが出た回は1975年夏、NET(テレビ朝日)系列で毎週火曜日にやっていたうちの1作。また1982年の『アメリカン・ヒーロー』という日テレ系のテレビ映画にもモンスター役で出ていたらしいが、よくわからない。

 こうしてみても、巨人レスラーというのは、映画界、テレビドラマにとって必要不可欠なキャラだったようだ…。ここで北区のドクターFから貴重な情報が入る(なにか昔、ゴングの巻頭記事によく出て来るミスターMみたいだなあ。これは架空の人物でしたが…)。実在のドクターF曰く、「あのジャイアント馬場が、いや馬場正平の出ている本邦未公開の米国映画があるんですよ」というのである。ええっ、ナニソレって!感じ。

その映画のタイトルは『Maines, Let`s Go』(それ行け、海兵隊員)。それは朝鮮戦争下の3人の米国海兵隊員の休暇を題材とした作品だという。監督のラウル・ウォルシュは『バグダッドの盗賊』やジョン・ウエインがデビューした『ビッグ・トレイン』など西部劇やギャング映画など多数の作品でメガホンを取っている。その中にはボクシング世界ヘビー級王者ジェームス・J・コーベットの自伝を描いた『鉄腕ジム』もある。

この『それ行け、海兵隊員』は、ウォルシュ監督にとって長いキャリアの中で、引退の一つ前の作品となる。主役の一人デビッド・ヘディソンは『原子力潜水艦シュービー号』、『失われた世界』、『眼下の敵』などで、私も子供の頃からお気に入りの彫りの深い二枚目俳優。

Maines, Let`s Goのポスター。

撮影したのは公開の前年、つまり1960年。馬場正平はこの年の4月に日本プロレスに入門し、9月30日の台東区体育館でデビューしたのは周知の通り。その後もずっと日本での試合に出ずっぱりだったのでアメリカへ行って撮影している暇などない。では、いつどうやって撮ったの?となる。よくよく調べてみると、映画の舞台は朝鮮戦争下の駐屯地・沖縄だった。当時、まだ米国の占領下だった沖縄でクランクインする。ストーリーは、沖縄を舞台に休暇中の海兵隊員たちの泣き笑いを描いた作品なのだ。

とすると、馬場さんはいつ沖縄へ行ったのだろうか。この年の12月9日、品川公会堂が年内最終戦(vs芳の里にリングアウト負け)。ちなみにここまでのシングル戦績は18勝7敗4分。その後、翌年1月6日の台東体育館まで約1ヵ月のオフがある。このオフに沖縄へ行って撮影した可能性が高い。当然、力道山から「ババ、行って来い!」ということになったのだろう。当時はパスポートがないと沖縄へ行けなかったので、翌年夏の米国本土遠征前に旅券を作っていたことになる。あるいは、部分的に日本本土でのロケがあったのかもしれない。そこのところはわからない。

馬場さんとウォルシュ監督(左端)。

それにしても、いくら異色の東洋の巨人だったとはいえ、デビューからたった数ヵ月の日本のプロレスラーをキャティングしたアメリカの制作サイドの眼力は大したものだ。グレート東郷あたりが「ジャパンには、こんなジャイアントがおるよ」って、ハリウッドの映画関係者に教えたのだろうか…。

馬場さんの役は紋付袴にチョンマゲの大男。それ以外わからない。主要キャストの中にショーヘイ・ババの名がないので、ちょい役だったのだろう。日本で公開されなかったは、朝鮮戦争下の沖縄という特殊環境の作品では受けないと日本側が判断したのか(安保闘争があった時期だし…)。あるいは力道山の嫉妬か、とも勘ぐってしまう。後年、馬場の米国修行での活躍も全て日本のマコスミに隠蔽した人だから、あり得ない話ではない。

馬場が初の米国修行に出たのは1961年7月1日。芳の里、マンモス鈴木と一緒だった。この映画の全米国公開日は同年8月15日。ロサンゼルス入りした馬場はグレート東郷宅を拠点に南カリフォルニアをサーキットしていたわけで、15日はロングビーチで試合をしている。封切りの日の3日後(8月18日)にはロスでフレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に初挑戦している。

紋付袴の巨人と海兵隊員と芸者?

もし映画の公開に合わせて世界王座への挑戦をぶつけたとしたのならば、ハリウッドのお膝元でマッチメーカーをするジュール・ストロンボーはやはり策士だったといえる。馬場さん自身もロスの映画館でこの映画を観ただろうか。全米同時公開だから、馬場さんが行く先々のテリトリーで「あの映画に出ていた日本の巨人だ」という目で見られていたかもしれない。こういう幻の映画の存在がわかっていたら、スチール写真を馬場さんに突き付けて、この時の映画のことを聞いてみたかった…。いや、映画ファンの竹内さんならば、きっと食いついただろうと思う。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅