ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第605回】ベルト祭りの余韻(1)

「猛虎顔面」さんが描いた私の映画ポスター。

 29日、日曜日の『第3回チャンピオンベルトカーニバル』はお陰様で大盛況でした。受講されたみなさん、お疲れ様でした。いつもは3本なのに、今回は5本のベルト(タイトル)…それらの歴史背景と検証作業はさすがに大変だった。私の講義の後に『闘道館』の泉館長がUWAの3本のベルトに値をつけた。その結果、ソラールの世界ウェルター級ベルトは38万円でイベント終了後に即、購買される(メデタシ…)。私の鑑定ではこのベルトは1977~78年のソラール王者期に使われたものではなく、90年代以降、日本への販売目的で作られた数本の中の1本である…と断定。ただし、作製本数の多いイグナシオ・キンタナ製ベルトも、現在では希少価値が出てきた。実戦使用ではないが、レプリカとは違う。ソラール本人が関わったれっきとしたキンタナ製の復刻ベルトということでした。

他の2本…ソリタリオのライトヘビー級も鑑定すると、これも77~78年のチャンピオン時代に使用したものではない。ただし、私が81年9月にソリタリオのグアダラハラの自宅に泊まった際、トロフィールームに飾ってあったベルトと一致した。80年にジュニアライトヘビー級王座を獲得した後、宣材用のポートレートを撮影する際、UWA2冠を強調したいがために改めてキンタナに発注したものと思われる。ソラールのように販売目的で作られたものとは違って、本人が大事にしていたプライベート用のものということ。ソリの死後に息子が家から持ち出して日本人ファンに販売したために流出したもの。81年のあの時グアダラハラの自宅で私が「これ、頂戴」とソリに言えばよかった、そうすればもっと状態良好で保管できたのに…と後悔している品である。これらの鑑定結果を受けて館長は55万(税込み)の値をつけた。

UWAのベルト3本には鑑定後に評価額が出て販売へ。

そしてもう1本のブラックマンのライト級ベルト…これに館長は88万円を付けた。そう、これこそブラックマンが王者時代に使っていたそのものの…と私が鑑定したからだ。今回の調査の結果、ブラックマンは3年の在位期間中に3度ベルトをチェンジしていることが判明した。78年8月、マテマティコとの決定戦で王座獲得した時に1本、79年末に赤いベルトに作り直して2本目、そして80年半ば頃から3本目のエンジ色のベルトに変えている。ブラックマン本人は「93度防衛した」と言っていたが、私がコツコツ数えた防衛回数は67度。それでもUWAにおける最多連続防衛記録である。その王座転落時に私は現場にいた。81年9月30日のパラシオ・デ・ロス・デポルテスでディアブロ・ベラスコジムの後輩ブラック・テリー(今もなお貴重なる現役選手)に敗れてベルトを失う。それがまさしくこのベルトである。後日、王者ブラック・テリーは自分でキンタナに頼んでベルトを作らせたために、このベルトは前王者のブラックマンに返却された。歴史的現場で取材したので私にとっても思い入れの深いベルトだ。ソリの55万とブラックマンの88万円のベルトは現在、『闘道館』で販売されています。しっかり鑑定したものなので、これは早い者勝ちです。

NWA世界ミドル級の1号ベルトは額装されて登場した。

続くNWA世界ミドル級のベルトは額装して登場。前オーナーのグラシエラ・グアハルド(愛称シェリー)からのビデオメッセージも公開した。そして1939年から綿々と続くメキシコ最古の世界王座の変遷と、このベルトの数奇な運命について講義させてもらった。世界ミドル級王座に6度君臨した大帝レネ・グアハルド(92年死亡)の長女シェリーはレイ・メンドーサ・ジュニア(ライムンド・ディアス=ロカンボレ→ビジャノ5号)と結婚し、グアハルド×メンドーサの子供同士という最強カップルを誕生させた(テーズとロジャースの子供が結婚したようなもの)。2014年に私がシェリーからベルトを譲り受けた頃、夫のライムンドはメキシコシティで歯科医をしていたが、現在は二人揃ってモンテレイへ引っ越し、現地で開院した。シェリーからはイベント後に「会の成功おめでとう。私のパパの偉大な足跡を伝えてくれてありがとう」という感謝のメールも届いた。彼女から発信された情報の拡散によって、メキシコ中のマニアたちに今回の『チャンピオンベルトカーニバル』のことが伝わる。それを知った彼らは、こういうイベントが日本であったことに驚き、強い興味を示したようだ(恐ろしい時代である。何でも簡単に世界中に伝わってしまう)。まあ、今回のイベントのNWA世界ミドル級ベルトのコーナーは、言い換えれば日本のインターナショナル・ヘビー級のベルトが海を渡ってメキシコのマニアイベントに現れ、そこでメキシコ人たちが馬場さんの功績を称える会をやっているようなものである。彼らが度肝を抜かして当然である(ああ、そういえば昨日は馬場さんの命日でしたねえ…)。

マルコビッチ製の個性的なシークベルトは年季が入っている。

 同じようなことはデトロイト市民たち(オハイオの一部も含む)にも言える。自分たちのテリトリーの宝であったUSヘビー級タイトルのベルトが数十年経った今、東京にあって、そこでザ・シークを偲ぶような怪しい会をやっているわけだから…(馬場さんの4年後、シークが亡くなって1月18日で、ちょうど20年目になります=享年76)。今回のイベントではデトロイトの地理や世情、歴史背景、人種問題、2つのビッグアリーナ…同地区で繰り返された興行戦争などにも触れている。事前の調査ではシークが64年末にデトロイト地区のプロモーターになってから80年半ばにクローズするまでの間に、少なくとも4本のUSベルトが使われてきたことがわかった。今回登場したいわゆる「シークベルト」は4代目で74年2月が初見。そこから93年1月に大仁田に1日だけ獲られる(翌日返却)まで19年間使われたタフなベルトである。今回のイベントでは時間の関係で紹介できなかった講師・小泉悦次氏が作製したシーク史料が手元にある。前日、私が頼んで慌てて作ってもらったシークのデトロイト抗争史である。それは来週、かいつまんで紹介させてもらうことにする。今日はこの辺で…。

「マキマキ!」

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅