ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第604回】UWA全盛期とは

 猪木さんが叙勲…従四位と旭日中綬賞の伝達が行われた(実弟の啓介さんと孫の寛太さんが受け取る)。日本政府(総理府賞勲局)も猪木さんが亡くなられて、その反響の大きさに慌てて動いたように思える。出来れば、猪木さんが元気なうちに皇居で伝達してほしかった。それにしてもめでたい。従四位だからデストロイヤーやマスカラスより上ということになる。古来、この位階は官人の序列で、当初は十二階、後に三十階、十六階になった。中世・近世においても公家や武将、軍人たちは一つでも上の冠位を望んだ。公式行事の場ならば猪木さんはデストロイヤーやマスカラスよりも上座に座れるというわけだ。日本は八百万(やおよろず)の神が存在する祭礼対象が多数いる国である。実際、全国には宗教法人を外れた祠から、おもしろ神社などを入れるとピンキリで数十万社あるといわれている。信仰対象は神聖なる山、巨岩、滝、巨木などの自然から、皇族、武将、偉人、軍人など様々。ある見識者によると「叙勲された偉人こそ神として御霊を社に祀り、人々の崇拝を長く受けるべき資格があるもの」としている。その説ならば猪木さんは叙勲したことで神になる権利と得たということになる。もし『猪木神社』か『闘魂神社』が出来れば、参拝する人(信者)がいっぱいいることだろう。そういうチャンスがあるのは後にも先にもアントニオ猪木だけだと思う。

チャンピオンベルトカーニバル

 さて、日曜日(29日)はいよいよ『第3回チャンピオン・カーニバル』開催日。先週書いたように、1月29日は1975年にUWAが旗揚げした日(これは偶然)。だからUWAにとって、1月29日はアニベルサリオ(アニバーサリー=創立記念日)である。そのため、1月末の日曜日にはビッグショーが組まれていた。それが始まったのはエル・トレオが総本山になってからだ。78年1月29日のトレオではマスカラスvsテムヒン・エル・モンゴルのIWA世界ヘビー級選手権とブラックマン&エル・マテマティコvsロボ・ルビオ&エル・シグノの覆面vs髪の毛戦の二本立て。79年1月28日のトレオではペロ・アグアヨvsレネ・グアハルドの5万ペソ賞金マッチとドクトル・ワグナーvsアンヘル・ブランコのマスカラ・コントラ・カベジェラの二枚看板。80年1月27日はソリタリオvs栗栖正伸のUWA世界ジュニアライトヘビー級王座決定戦がメイン。少し開催の遅れた81年の2月8日はソリタリオvsビジャノ3号のUWA世界ジュニアライトヘビー級とチャベラ・ロメロvsイルマ・ゴンサレスのUWA世界女子のW選手権。82年1月31日のトレオはフィッシュマンvsジョージ高野のUWA世界ライトヘビー級選手権。83年1月30日のトレオはペロ・アグアヨvsエル・ファラオンのWWFライトヘビー級とヘビー・フェースvsエンリケ・ベラのナショナル同級のW選手権。85年1月27日の10周年記念大会はスタン・ハンセン&ベビー・フェースvsカネック&ドス・カラス、ビジャノ3号vsエル・シグノのWWFライトヘビー級とエル・サタニコvsスペル・アストロのUWA世界ミドル級選手権…。

 これを見るとこの時代のビッグマッチにおける世界選手権の重要性と、ライトヘビー級がこの国のプロレスの軸になっていることがわかってもらえるかと思う。CMLLのアニベルサリオは、89年の歴史の中で34人のマスクマンがマスカラ戦でマスクを脱いでいる。天敵AAAが出来た近30年に絞ると19人もの覆面生贄が…マスカラ戦に依存したマッチメイクである。つまりそれ以前は選手権試合がアニベルサリオの華だった。それはUWAも同じこと。世界選手権こそが、団体の核であり、ナショナル王座はルチャ・リブレ史そのものなのだ。日本プロレスの日本→アジア→インターナショナル、新日本のNWF→IWGP、全日本のPWF→三冠と同じで、タイトルの価値と変遷がわかれば自ずと歴史も見えてくる。私は40年前、1933年からのメキシコタイトル史を丹念に調べることに情熱を燃やした。それは調べれば調べるほど歴史の奥深さがわかり、伝説の名王者たちが紡いできたタイトルの価値に触れることができた。日本マットのようにワンマンエースが築いた歴史ではなく、個性豊かなタレントたちがベルトを奪い合う過程に惹かれた。また階級によって異なるタレントが揃っていることも見逃せないポイントである。ただし、王者になれるのは一握りのエストレージャのみで、タイトルに挑戦することですらハードルが高い世界なのだ。それゆえ、ベルトの価値は高まるのである。日本に来たメキシカンたちは、総じてそうした選りすぐりのエリートたちだ。来日した彼らが粗略に扱われる様に私はどれほど嘆いたことか。メキシコのプロモーターたちは日本人を優遇してきたのに…。

ヒナミがソリに初挑戦(77年5月22日)。

今回のイベントではUWAのベルトが3本も登場する。エル・ソリタリオの世界ライトヘビー級、ソラールの世界ウェルター級、ブラックマンの世界ライト級の3本…どれも今では入手困難となってしまったイグナシオ・キンタナ製の逸品だ。このライトヘビー級王座には藤波辰巳、グラン浜田、栗栖正伸(2度)、佐山聡(2度)、小林邦昭(6度)、ジョージ高野(2度)の5人がアタックして、獲得できたのは79年の浜田のみ。それも王座決定トーナメントの決勝の相手は同門の栗栖だった。在位はわずか半年…。浜田はその後、同王座に4度挑戦しているが奪還できなかった。ちなみにソリタリオに挑戦したのは藤波だけだった。イベント当日には新日本選手たちの正確なUWA挑戦記録も公表しよう(メモを忘れずに)。

ウェルター級は88年に浅井嘉浩が初獲得するまで日本人王者はいない。浜田ですら3度の挑戦を初代王者ビジャノ3号と2代目王者ソラールは跳ね返されている。王者ソラールは77年10月20日のパチューカで浜田を迎撃した。94年に新日本で保永昇男、大谷晋二郎、金本浩二がたらい回しにして、翌年グラン浜田が回収しメキシコに返還したが、その時点でUWAは崩壊寸前の泡沫団体になっていた。

ではライト級はどうか。75年に新日本から修行に出た橋本小助(ハシ・マサタカ)が王座決定戦を含む、4度挑戦したが、初代王者エル・マテマティコに全敗している。最軽量の世界王者だけにブラックマン時代(78年9月~81年9月)の日本人挑戦者はなし。ただ、次の王者ブラック・テリーに83年4月11日、グアナファト州セラーヤでヒロ斎藤が挑戦して敗れている。ライト級の上限は70キロだが、本当にチョビはそれ以下だったのだろうか。

ブラックマンは62連続防衛記録保持者。

こうしたことからUWAの全盛期は75年~メキシコ大地震のあった85年秋までの約10年間あたりといえるだろう。アントニオ猪木の新日本全盛期といくらかダブる。UWAでは84年くらいからアルミニウム素材のキンタナ製ベルトが鉄板の大判ベルトに移行していく。つまりキンタナ製ベルトはUWA隆盛期の象徴でもあったといえる。今回登場するUWAの3本のキンタナ製ベルトは、後日『闘道館』で売りに出されるというので、約1ヵ月かけて特に入念に鑑定した。その詳細はイベントで報告したい。

故レネ・グアハルドの長女シェリーから…。

さて、今回のアナタのお目当てはやはりシークベルト? それとも巨匠マヌエル・サバラのレイスモデル? あるいはキンタナ製のUWAベルトたち? 最多5本のベルトが大集結するコアなカリキュラムをぜひ受講していただきたい。放課後には楽しい撮影タイムが待っていますよ。

シークベルトの謎も解明される。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅