ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第552回】81年のノート(1)

 自分の机の周辺を整理していたら1981年のダイアリーノート…B5くらいの手帳が出てきた。今から40年前の年間ノートで、当時としてはちょっと小洒落た品。78年からゴングで原稿を書かせてもらったり、校正へ行ったりとアルバイトをしていたが、この年の1月に私は晴れて日本スポーツ出版社に入社している。改めて新入社員として迎え入れられ、何か日々のことを記録しておきたいと思って買った手帳だ。初出勤当日は春日の「遠州屋」で新年会があった。

我が家から発見された81年ノート

 ノートを開いてみると、ほとんど空白で、自分のスケジュールが細かく書かれているわけでもなく、随所にクシャクシャした文字でメモがある程度。それは私にしか読めない崩した文字だった。なぜならば、あまりに編集部内での秘密が多くて、それらを文字として残すと、もし外で誰かに覗かれたり、落とした時にマズいことになるからだった。だから読まれてもいいようなネタは、汚いながらも他人でも読める程度の文字で書かれている。

 後に週刊誌で記者に変身すると、ノートにびっしり文字を書くようになるが、この頃(月刊)は取材に行っても試合経過を詳しくレポートするわけではないので、メモといってもこんな程度だったのだろう。取材先ではまず会場の入口のパンフレット売り場へ行く。そこで本日の取り組みのスタンプを押してくれるのだ。そんなスタンプもページの随所に現れる。

ブッチャー新日本登場の舞台裏では…

 私が今回、おおっ!と注目したのは、5月8日、川崎市体育館での走り書きのようなメモ。それは使えないインタビューネタだった。この川崎といえば、アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本に初出現した日。我々は事前にブッチャーのジャンプは事前に取材していた。だからその日は登場シーンを見届けるだけ。だからノートにはブッチャーのブの字もない。では誰のインタビューメモなのか。それはタイガーマスクだった。インタビューというより、立ち話のメモというべきものである。

 4月23日の蔵前デビュー戦の後、支度部屋の奥の物置で、私がアイコンタクトと軽い会釈で佐山さんに挨拶した話は、何度も書いたり、喋ったりしてきた。その後、何処の会場で最初に佐山さんの話をしたのかが思い出せずにいたが、このノートで川崎だったのことがわかった。川崎ならば、たぶん控室の通路の行き止まりになったあたりか…。どのマスコミもタイガーは近寄りがたいようで、ノーマーク。新日本の関係者のガードも甘い。蔵前と違って隔離状態でなかったから可能だった立ち話であった(マスコミで最初にタイガーマスクと話のは間違いなく私であろう)。

4・23蔵前の後、佐山さんは一度イギリスに戻ったといわれているが、新井宏氏の調べだと戻った形跡(英国の試合記録)はない。次にタイガーが公式の場に姿を現すのが、5月7日の『第4回MSGシリーズ』前夜祭レセプション(京王プラザホテル)で、ここからマスクは「ぬいぐるみ」となる。蔵前でタイガーは佐山さんと確信した私は、何とか2年前のメキシコでお世話になったお礼を言い、いろいろ話がしたい…それだけを考えていたのは確かだ。

残念ながら前夜祭では接点が持てなかった。ただ、その日にタイガーマスクが新日本で継続して参戦することを知る。その翌日がこの川崎の開幕戦。ここがキッド戦に続く日本での第2戦目(vsクロネコ)。前述のように試合前に佐山と対面できた。メキシコで佐山さんと会ってから2年目に交わされた会話だった(もちろん日本語で)。周辺に佐山聡と懇意にしていた記者は誰もいない。だから独占で話を聞けた。

ノートにはイギリスのことが…

“誌面で使えない話”ってどういう事かというと、佐山さんがメキシコを出てからイギリスでサミー・リーとしてどう活動をしていたのかという内容だからだ。

メモには

「マーク・ロコ      ミドル

 マーティー・ジョーンズ ライトヘビー

 ジャイアント・ヘイスタック 2m10cm 250

 3ヵ月

 6月26日 ワールド・タイトル・Lヘビー

 ITV サミー・リー

 土曜 4時

ウェンブリー 1万6千

6・26」

  と走り書きされていた。

 それは私が佐山さんにイギリスマットの実情とスケジュールを聞いているメモであった。日本でタイガーマスクをやっている現状を考えると誌面で使えるネタではない。それでも私はイギリスでの事を聞き出そうという姿勢が出ている(あの頃、未知のイギリスマット事情を事細かに聞いていたのは私だけだろう)。佐山さんも嬉しそうにイギリスの話をしてくれたように記憶する。6月26日、1万6千人入るロンドンのウェインブリー・アリーナでマーク・ロコとのミドル級世界王座決定戦をするということをとにかく私に聞いてもらいたかったのがメモから読み取れる。

 ここではしきりに本人は6月26日と強調しているようだが、そのウェンブリー大会は実際には6月18日だった。18日にロンドンに行ったとしても6月24日の蔵前(vsビジャノ3号)に間に合ったのに、日にちを間違えたために断念したのだろうか。サミー・リーはウェンブリーを欠場してロコが自動的に新チャンピオンになっている。川崎メモの行間からは「早くイギリスに帰りたい」「このタイガーマスクよりイギリスのほうが大事」「二足ワラジでやるしかないかな」というような気持ちが滲み出ている。川崎の時点で本人はタイガーマスクにまだなり切っていない。

ロペスの住所は聞かれたのは後楽園か

 たぶん、次に会話を交わしたのは2日後の後楽園ホール、あるいは5月13日の横浜文化体育館か。その時は佐山さんのほうから声を掛けられる。「清水さん、マスクを作るためにメキシコへ行くことになったんですが、清水さんと一緒に行ったロペスのお店の住所と電話番号を教えてください。このマスクじゃ危なくてやってられないでよね。向こうでは少し試合をするかもしれませんけど…」。それで翌日の蔵前でロペスの住所を書いたメモを渡したのだろうと思う。私はメキシコのエクトール・バレロ編集長に「ティグレ・エンマカラードの試合記録を後で送ってしい」と事前に頼んでおいたので、あのメキシコ遠征記録が残っているのだ。あれがなければタイガーマスク全記録はコンプリートしなかったと思う。

最近に本人は「マスクを作るためにメキシコへ行ったんじゃないですよ」と語っているようだが、それは明らかに違う。当時、日本にマスク作りのノウハウがまだ無かった。あの遠征はマスク作りが主目的だった。まだデビューしたばかりのタイガーをUWAが「こっちに送ってほしい」と言うのは、あまりに性急。現地のあおり記事もないばかりか、UWAのフィクサーのバレロ氏も「ティグレって誰?」という感じだった。つまりこの5月17日~25日のメキシコ遠征は新日本側が強引にネジ入れたと見るべきだろう(でも、実際はロペスでプライベートしか作れなかった。同時進行で作られていた(?)ポピー製の牙付きを6・24から使用)。

また、このメキシコ遠征からイギリスへ飛んだという通説も疑問が出て来る。サミー・リーの試合記録がないのだ。メキシコから直で帰国したとすれば、そこからポピーに再発注しても1ヵ月の製作猶予がある。新井氏の調べによると、サミー・リーがイギリスに再登場するのは6月24日武道館の後である(6月29日~7月29日)。

81年ノートによれば、イギリスからの帰国直後の大阪府臨海スポーツセンター(7月31日)に私は取材に行っている(藤波vsレ・ソントン、ボックvs木村健吾、タイガーvsスコルピオ)。その時の一番の目的は佐山さんへのアポだ。「明後日、道場周辺の多摩川園、田園調布付近で取材したんですが」というお願いである(当時の取材は団体を通さないで個人交渉)。「ああ、いいですよ。じゃあ、○時に道場に来てください」。

チャコのアタックインタビューの日が判明

それがあの『チャコのアタックインタビュー』である。ノートに取材日は書かれていないが、カメラを持って同行してくれた小佐野景浩氏は「確か日曜日で、その後にホールに行きましたよ。僕は翌日アメリカ取材へ出発したんで、なかなか荷造りが出来ていなくて…」と証言している。インタビューの夜、8月2日(日)の後楽園ホールは猪木vsアレン、ブッチャーvs藤波、ボックvs長州、タイガーvsスコルピオだった。ノートには確かに「3日、小佐野渡米」と記されている。このように所々にメモが書かれたノートを眺めていると、いろんな再発見があって実に楽しい。

そして次号、12月22日発売のGスピリッツVol.62の特集は、オフィシャルの発表に先立って『1981年の新日本vs全日本』である。40年前のプロレス戦争を徹底検証する特集だ。つまり、このノートはそこに繋がるというわけ…。表紙とコンテンツ等の公表は明後日(10日)あたりかな…。お楽しみに。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅