ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第551回】マッハさんが好きだった

 いきなりですが、先々週、「やりたい」と書いたマッハ隼人(肥後繁久さん)を偲ぶ会を実行に移そうと決めました。2022年1月23日(日)、「闘道館」で昼過ぎスタートで予約を入れました。

79年に日本に帰って来たマッハ隼人

実行委員はマッハさんと最も親しい元マッハ隼人ファンクラブ会長の国枝一之氏とマッハ隼人の研究家・カンペオン太こと冨倉太氏…そして発起人の私。これは3年前にロスから帰国した直後にマッハさんのトークショーを計画していたそのままのメンバー。残念ながらこの計画はご本人が亡くなってしまったので実行できなかったけど、それでもマッハ隼人の功績を形にしたいと「偲ぶ会」を執り行うことにしました…。

形式上は私のトークショー『ビバ・ラ・ルチャ』シリーズのVol.44として催すことに…。マイティ井上さんがゲストだった2020年1月19日以来、丸2年ぶり。そして追悼イベントということではリスマルク以来となる(ブランクがあるので緊張するなあ…)。ゲストはこれからオファーするので、OKならば、後日発表。

ここでは国枝氏と私がマッハさんの生前の秘話をたっぷり披露したいと思う。また貴重な写真、遺品などを公開する他、マスクやコスチューム等も展示しようと思っています。その他、未公開の写真、記事、音声データ、国内外の秘蔵動画など盛り沢山の内容になりそうです。

先々週、Gスピリッツ27号と28号のマッハ隼人ロングインタビューを自画自賛したが、ベーシックな部分はそこに詰まっている。ただ、もう9年前の話。それからアップデートしたネタ、最新のマッハ研究により新事実が次々にあぶり出されているので、今回の偲ぶ会は、そういうアカデミックな報告の場にもしたいと思う。特にメキシコ、グアテマラ、パナマ、ロス、カルガリーなどの記録や画像は必見である。

マッハ隼人ほど変わった経歴の日本人選手はいない。大事なのはそこの部分である。日本で試合した日本人レスラーは、最初に日本の団体に所属していて、海外へ修行に行くか、飛び出る、そして帰国するか、消えてしまう。このパターンしかなかった。日本でプロレスラーになれずに海外でなって戻って来た最初の例がマッハだった。次が浅井嘉浩か。浅井の場合は新日本の練習生で、推薦を受けの渡墨だったから、ベースも出来ていたし、新日本の紹介なので現地での扱いも最初から良かった。

ところがマッハは1から海外でレスラーになった選手。過去にマツダ・ソラキチ、キラー・シクマ(志熊俊一)、マティ・マツダ、ミシマ・オオタ、アキオ・ヨシハラらが米国大陸でプロレスラーとなっているが、日本の地でリングに上がることなく現役生活を終えている。マッハとともにプロレスラーになったキムラ・サトウ(大原信一)もそうした一人である。あのライガーも一歩違えば、この中に入っていたかもしれない(偶然、山本小鉄の拾われた)。マッハの例が無ければ、ライガーはメキシコへ行かなかったはずだ。

2万集めたパナマでのサンドカン戦

マッハが輝いたのはルチャドールになれたメキシコではない。その後のグアテマラ(カミカセⅡ)、プエルトリコ(フヒカワ・ハヤト)、エル・サルバドル(クレナイ・ハヤト)、パナマ(フヒカワ・ハヤト)での実績が大きい。この1977~78年の中米行脚が彼のレスリング人生のハイライトだったかもしれない。ある意味、肥後繁久こそ最初の“プロレス冒険家”だったといえるだろう。78年7月からトーキョー・ジョーの名でロスのマイク・ラベールにブッキングされ、もっぱら水曜日のテレビマッチでオリンピック・オーディトリアムに出場していた。

79年1月24日、ロスのテレビマッチでトーキョー・ジョーはアル・マドリルと対戦している。その日は藤波vsプロフェッサー・イトー(上田馬之助)の試合もあった。私がウォーリー(山口)君とロスを取材したのは、その2日後、金曜のビッグマッチ。トーキョー・ジョーは出ていない。でも、マッハさんはロスに居たことになる。もし、ここで会えていたら、何か違った展開が生まれただろうか…。

ロスでは剛竜馬と木村健吾に先輩面されイジメられたようだ。「あれが日本の団体の仕組みなんですかね。先に入門した人間が先輩だっちゅうて…そこは私、日本に戻っても納得できなかったことでしたね。やっぱり年上は年上でしょ?彼らは私に“さん付け”せず、呼び捨てですから。直接の先輩でもないのに、何でこんなに威張り散らすのかなと思って…」。私がマッハさんにインタビューした中で、もっとも印象に残る言葉だった。これを聞くと、米墨のテリトリー制の競争社会と違って、日本のプロレス団体が力道山時代から続けて来た封建的な縦社会の歪さを感じざるを得ない。

「同じロスで会った藤波さんは威張ったりしなかったし、シスコで会った天龍さんはとってもいい人で良くしてくれましたよ」と言うから、これはあくまで個人差ということなのだろうか。ただ、マッハは狼軍団に誘われて新日本へ行くのではなく、国際で良かったように思う。ただし、今さらながらではあるが吉原社長とグレート草津のマッハへの扱いには不満だらけだった。

本邦初公開!マッハのトペ・アトミコ
本邦初公開!マッハのトペ・アトミコ

マッハの動き、技は他の日本人選手と明らかに違った。きらびやかマスクやコチュームも目を引いた。地味なオジサンばかりの国際の選手たちの中にあって異質の存在であった。それを見習い扱い、新人扱い、外様扱いして、ずっと前座をやらせたのが大間違いだったと思う。私がマッチメーカーならば初戦で鶴見に勝たせて、まず華々しくデビューさせた。それで毎回、セミかセミ前あたりで3年後のタイガーマスクのような別路線で使うべきだった。それまで革新的にアイディアを投入してきた吉原社長ならば、出来なくないオペレーションだと思う。

日本の団体にありがちな年功序列、入門順という悪しき格付けは吉原さんをしても打破出来なかった点だ。「タイガーマスクブームのような」とは言わないが、今までにないムーブメントを国際に引き起こすことは出来たと思う。決して一流選手ではないが、それはマッチメーク等でカモフラージュできたはず。またマッハ自身も努力をしていた。そういうこと気づいた田中元和ディレクターがマッハ売り出しに動こうとした。ただマッチメークにまでは口出しできなかったし、団体自体も終末に近づいていたからだ。

マッハ隼人は天から舞い降りた異星人だったのだ。78年夏に呼ぼうとして呼べなかったミル・マスカラスの替わりを果たせた。自前のミニ・マスカラスになり得た。それをなぜ、これを既成の枠、前座戦線に押し込めてしまったのだろうか。日本のプロレス関係者はみんなマッハさんの腰の低さ、人柄の良さに付け込み、上から目線で見下していただけなのだ。古臭い考えの吉原さんやグレート草津よりも、あの時代に会場でマッハに群がった子供たち(現在の50歳台の方)のほうが、よっぽど未来や方向性が見えていたように思う。

そんな40年前にマッハ隼人が大好きだった子供たちに1月23日には集まってもらいたい。一人の薩摩隼人が、誰もやったことのないどんなプロレス冒険旅行を続けて来たのか、その足跡を辿ってみたい。新しい2022年カレンダーが手に入ったら真っ先に1月23日のところに印をつけてほしい。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅