ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第550回】天に召された小さな”巨星”


 マッハが亡くなった1週間後…メキシコから“流星仮面”エストレージャ・ブランカ(83歳)の訃報が届いた(亡くなったのは11月15日)。死因は不明だが、コロナ説も…。エストレージャ・ブランカ…ルチャのオールドファンでないと知らない名かもしれない。ましてや一般のプロレスファンならば「誰、それ?」の世界…。でも、私がここで取り上げておかなければ、永遠にスルーされたままになってしまうので、あえてこういう素晴らしい選手がいたことを記しておきたい。

85歳で他界したエストレージャ・ブランカ。

 ゴングの1972年5月号増刊の「メキシコ選手名鑑 下巻」で私は初めてその名前と写真に接した。その時の名は「エストレラ・ブランカ」(Estella Blanca のllaはVillanoのジャ)。額に白い星のマスクマンは特に印象深かった。マスク姿が不思議に童顔に見え、明らかに「正義の味方」に思えた。それが「白い星」を意味するとは、まだ勉強不足で知らなかった。

当時、メキシコの資料は武者修行中(70~71年)の駒、星野、柴田、北沢からゴングに送られてきた専門誌(主にルチャ・リブレ誌)。大半がその誌面から抜粋したもの。今から思えば、それらの掲載写真と名前(間違い多数)に適当なプロフィールを添え、竹内&櫻井コンビが名鑑を作ったわけ。それでもそれは50年前の私の心に突き刺さるものがあった。あの時代のゴングの記事はどれも子供心をくすぐる夢があり、好奇心を掻き立てさせる怪しい魅力があった。結果、私のようにこの世界から抜けられなくなる奇人・妖怪が生み出されたのだ。

 エストレージャ・ブランカをGスピリッツの「アリーバ・メヒコ」で取り上げることはないであろう。だから49年前のメチャクチャなプロフィールをここで正しておく。生まれは1938年1月15日、ミチョアカン州アンガクグエロだが、育ちはプエブラ。昭和にすると13年…馬場正平が新潟県三条で誕生した2日後に生まれたことになる。ペドロ・センテロのコーチで54年にデビューしているが、リングネーム等は不明。60年代に入って青いマスクのエストレージャ・ブランカに変身。馬場と違って小さい。164センチ、65キロ。ペソ・リヘロ…ライト級の選手である。

この時期、メキシコのボクシング界にはビセンテ・サルディバルやルーベン・オリバレスのように軽量級に恐ろしく強い選手がいた。「えっ、65キロしかないの…」と言って馬鹿にしては駄目だ。アマレスや柔道の五輪メダリストを「体重が軽いから弱い」と見る人はいないはず。それと同じである。日米のプロレスファンは「ヘビー級こそがプロレスだ」と信じすぎ。柔道・アマレス視線でプロレスを観れば、中軽量級や軽量級にすごい奴を発見することができる。その代表がエストレージャ・ブランカである。彼の武器はスピード。飛び技もあるが、バックや関節を取るのも滅法早く、王者の必需品であるジャーベも多彩だった。

1968年8月20日、アレナ・メヒコで行われた“カルナバル・デ・カンペオネス”でラウル・ゲレーロを破ってナショナル・ライト級王座を初戴冠。70年10月20日のコリセオでロドルフォ・ルイス(2009年新日本に来日したアベルノの父)に敗れるまで2年2ヵ月もベルトを守った(6度防衛)。体格の違いで対戦することはなかったが、星野や駒がメキシコ入りした時に彼はすでに大スター…巨星だったのだ。71年8月11日のアカプルコでルイスからベルトを奪回する。それは櫻井&竹内特派員がメキシコシティに滞在していた時期と重なる。

ナショナル・ライト級王座に2度就く。

その頃、彼は一人の日本人と仲良くなる。キタサワ(北沢幹之)である。

「僕がメキシコへ行った時にエストレージャ・ブランカにとってもお世話になったんですよ。シバタと別行動のコースの時に移動も食事も一緒で、彼からはいろんなことを教わりましたよ」。私のトークショーにゲストで北沢さんに来てもらった時、これを聞いて一番驚いたのは私だった。まさか北沢さんの口からエストレージャ・ブランカの名前が出るとは、想像しなかったからだ。当時、北沢さんは28歳。エストレージャ・ブランカは32歳。キャリアでは8年の差があった。

「この人はシュートも強かったですよ。頭脳的な動きをして身体に切れがありました。人間も良かったですね。ボクシングと同じで、小さくても巧くて、強い人はいっぱいいます。だから僕はこの国のプロレスが気に入って、もっと長く居たかったんですよ。猪木さんに呼ばれて新日本に行くことにならなかったら、あと2年はメヒコに居たかったです。本当に帰りたくなかった。残念でした」

日本では怪我と小兵ゆえに扱いが良くなかった北沢さん(高崎山猿吉)にとってメヒコは天国。やっと叶った海外武者修行の旅なのに、たった半年での帰国…心残りはかなりだったようだ。

EMLLにはライト級の世界王座(NWA)はなかった。そのためエストレージャ・ブランカはナショナル王者以上のステップは出来ず仕舞いに…。73年4月11日のアカプルコでタウロに敗れてナショナル王座を転落。それでも1年8ヵ月の在位で5度防衛している。新団体UWAに移籍したのは77年。ここにはライト級に世界タイトルがあった。39歳のエストレージャ・ブランカは21歳の天才王者エル・シグノの持つ世界のベルトにプエブラ、ベラクルス、トルーカで3度挑戦するも弾き返された。さすがにピークを過ぎていたようだ。でも70年代から、ずっと地元のプエブラを本拠にしていたので“プエブラの聖者”と呼ばれて人気を博した。

同じライト級で一世を風靡したのがご存知ブラックマン。エストレージャ・ブランカはブラックマンの10年先を走っていたライト級のスーパースター。もしエトレージャ・ブランカが10年遅く出現していたら、タイガーマスクの相手として来日していたかもしれない。彼の凄いのはマスカラ戦の実績だ。イラスー(ラ・フィエラの師匠)、タウロ、エル・ドラド、アンヘル・ネグロのマスクを剥ぐなど、マスカラ・コントラ・マスカラの勝利数はナ・ナ・ナント116。後にイホ・デル・サントがマークした33勝を遥かに凌ぐ不滅の大レコードだ。一番輝かしい勝利は77年6月19日のパラシオ・デ・ロス・デポルテスでウルトラマンと組んでセウス&パンテラ・アスールのマスクを剥いだことだろう。

自宅にはマスク剥ぎの戦利品が山のように。

ちなみにマスカラ・コントラ・カベジェラでの勝利は99。その中にはエル・ポラコ、ベラウリオ・メンドーサ(リスマルクの師匠)、スコルピオ、ウロキ・シト(クロネコの父)、ディック・アンヘロ、マヌエル・ロブレスがいる。最もすごいのはセウス&パンテラ・アスールのマスクを剥いだ翌週(6月26日)のパラシオでガジョ・タパド&マスカラ・ロハと組んでベジョ・グレコ&セルヒオ・エル・エルモソ&ベビー・シャロンのオカマトリオの自慢のヘアーを切り裂いた試合だろう。この99という数字も史上最多レコードである。

リング上の技同様にミシンも器用だった。

意外と知られていなかったのが、マスカレーロ(マスク職人)としての、もう一つの顔だ。ルチャドールとマスカレーロを兼業するのはエル・パンテーラ(2号)、ケンドーなどが有名で、古株で実績があるのがブルー・デモンやアニバルのマスクを作ったラ・フリア(アルフレッド・エルナンデス)。他にはアンヘル・アステカ(元NWA世界ミドル級王者)、フラマ・ドラダ(元ナショナル・フェザー級王者)、ゲレーロ・インカ、ローリン、ライ・ロサスなどたくさんいるが、エストレージャ・ブランカほど著名なルチャドールでマスク職人もしていたという例はない。「自分のマスクは自分で作る」から始まり、選手仲間のウラカン・ラミレス、アニバル、シエン・カラスらに一時納品している。それ以外の選手にもマスクを頼まれて作っていたが、「この期間はエストレージャ・ブランカ製だった…」と断言できるほど一定時期に納品していたわけではないようだ。

サントも採寸しているが、納品したかは(?)。

生涯215回、自分のマスクを賭けて戦い、そのすべてに勝利した小さな英雄は、リタイア後も死ぬまで素顔を他人に見せず、本名も公表することなく、エストレージャ・ブランカのまま天国へ旅立った。こんな絵に描いたような一生を終えたマスクマンは他に例がない(サントやブルー・デモンは死後に本名が公開され、ウラカンは引退後にマスクを脱いだ)。そういう意味でも素晴らしき生涯だったといえる。白い巨星は堕ちたのではなく天に召されたのだ。ご冥福をお祈りしたい…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅