ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第633回】テリーとの思い出雑話 (2)

 まず、最初に大事な訂正をさせてもらう。EMLL(現CMLL)の2代目当主サルバドル・ルテロ・カモウさん(当時の通称はチャボ)は亡くなられてなかった…亡くなられたのはチャボさんのお姉さんのエルサ・ルテロ・カモウさんでした。エルサさんは初代サルバドル・テルロ・ゴンサレス代表の長女で、3代目パコ・アロンソ・ルテロ代表のお母様でした。よく確認しなかった私の大ミス。まことに申し訳ない。81年のアレナ・メヒコでのパーティーで私はエルサさんにお会いしていました…。享年はちょっと確認できなかったけど、恐らく100歳前後だったのでは…。偉大なるルテロ・ファミリーの皇后的な存在…改めてエルサさんのご冥福をお祈りします。 さて、先週に引き続きテリー・ファンクの思い出を書かなくては…。競馬のお陰でファンクスと、特にテリーと仲良くなれた私…。でも、それは長続きしなかった。テリーが引退を宣言したからだ。膝の具合が悪化したため、1983年夏、テリーは引退することになる。いくらハンセンとブロディが台頭してきたとはいえ、テリー自身の人気にまだ翳りはなかった。

「ユウ(山口雄介の雄)、先手を打つぞ。テリーが引退する前に増刊を作ろう。いい装丁の豪華本を」と竹内さんがウォーリーにそう言って動き出す。竹さんがウォーリーに指示したのは「テリーにこう頼んでくれ。それぞれのテーマを箇条書きにして渡すから直筆の短編エッセイを書いてほしいということ。それからアルバム…幼少時代からデビュー当時の写真を貸してもらうように。それとラウル(・ゴメス・デ・モリーナ・ジュニア=カメラマン)をアマリロへ飛ばしてテリーが家族と過ごす平和そうな絵を撮らせよう。それらの協力を依頼すること」。アルバムを取り寄せるのは『ミル・マスカラス その華麗なる世界』と似た手法、でもエッセイ写真集にしてソフトさを出すのはさすがだと思った。企画は最高、指示も的確だった。テリーはゴングに全面協力してくれた。私は直接、この本の編集にタッチしていないが、2人が編集している様子を間近で見ていた。材料さえ揃えばOK…恐らく3~4日で140ページからの分厚い本を作り上げてしまったように思う。『さよなら テキサスブロンコ GOOD BYE! TERRY』は秀作だったと思う。

この笑顔は最高だ!

 私はその頃、レギュラー(本誌と別冊ゴング)以外に没後20年ということで『SUPER HERO 力道山』という増刊を竹内さんと並行して作っていたが、次なる指令が出た。ウォーリーとのタッグで「テリーの名勝負増刊を作れ!」だった。小林和朋くんも小佐野くんも編集チームに加わる。竹内さんはこの本にはノータッチ。テリーの引退試合は8月31日と決まっていたからそれを最後に入れて、アマリロでのデビュー戦からの名勝負ベスト50を収録しようという計画だ。中身は5部構成…PART1は初来日第1戦からvsブッチャーまでの日本マット前半における13試合をカラーで、PART2は65年のデビュー戦から青年時代のアメリカでの試合をモノクロで9試合、PART3は73年から83年までアメリカでの8試合をカラーで、PART4は再びモノクロでNWA世界チャンピオン時代を含む8試合をモノクロで、そしてPART5は80年のvsスレーターから引退試合まで全日本での後期の12試合をカラーで収録することに決めた。試合のチョイスをウォーリーとああだこうだ言いながら、台割(本の設計図)を作ったのが一番大変だった。

車中で自分のエッセイ写真集を見る。

ただ、この本は「監修:テリー・ファンク」を売りにしたので、この試合の選定はテリーがしたことにしなくてはならない。そのためにテリーには一度、ゴング編集部に来てもらわなければならなかった。サブタイトルが『テリー・ファンクさよならシリーズ』…83年7月7日、午後3時15分着のパンナム機で来日したテリーは高輪東武ホテルへ向かう車中(馬場さんのダッチバン)で発売中の『さよなら テキサスブロンコ GOOD BYE! TERRY』を初めて手にする。「オオ、グード!」と大感激、大満足。そしてオフの日にテリーはゴングへやって来た。すでに台割も決まっていたので、監修の絵作りのために…である。24度も来日しているけど、テリーがゴングに来たのは初めてのこと。「ウォーリーたちはこういう環境でゴングを作っているのか」「俺の試合写真はこういう風にファイルでストックされているのか」と感心。我々がリストアップした50試合を読み上げると「OK、OK」と、その度に頷いた。テリーの脳裏に思い出が一試合ずつ巡っていたのかもしれない。そして自分の試合のポジを熱心に観ながら、随分長い時間、編集部に滞在した。名ばかりのはずの監修も一変…テリーの熱心さで、本人の公認本になったと思う。

ゴング編集部にテリーがやってきた。
テリー編集長とウォーリーと私。

 ゴングとテリーの間にはある約束事が交わされていた。前回のエッセイ写真集で協力した謝礼についてである。テリーは「そのお金はいらない。でも後から日本に来る妻と子供たちを広島へ連れて行きたいんだ。その費用とガイドをお願いしたい」と言ってきたので、竹さんはそれを承諾。ゴングが旅行費を負担し、ウォーリーがガイドで同行することになる。8月31日、蔵前でのファンクスvsハンセン&ゴディの引退試合を深夜に入校。「テリーが倒れて舌を出した」なんて、ハプニングが無くてよかったよ…。こうして『燃え尽きたテキサス魂 TERRY FUNK 名勝負BEST50』は無事完成した(9月7日発売)。

この表紙は予め出来ていた。

そして引退試合の翌々日、ウォーリーはテリー一家を連れて早朝に広島へ新幹線で向かった。今回、テリーが亡くなった時、「初めて来日した頃、広島で試合した後、飲み屋へ行ったらアメリカ人だからと入店させてもらえなかった。まだ反米感情が残っていた」なんてテリーが言っていたという記事かコラムが載っていたが、それっていつ聞いた話なのか…。テリーが初めて広島で試合をするのは9度目来日、77年の『世界オープンタッグ選手権』である。83年の時にテリーが言っていたのは、「何度か広島へ行ったと思うけど、俺の知りたいヒロシマは観てないし、体験していない。だから行きたいんだ。家族を連れて…」だった。

 翌日に帰国するため、1日で東京~広島を往復する弾丸ツアーだ。ところが、テリーが「京都に寄りたい」と言い出したので途中下車。松葉杖で清水寺を散策する。そのため一家が広島に着いたのはもう陽が暮れていた。私がウォーリーに「原爆資料館にだけは絶対に連れて行ってね」と言ったのに、もう閉館していたのだ。ただ慰霊碑の前に飾られた千羽鶴を子供たちに見せて無言の教育…その後、原爆ドーム近くにたたずみ、空を見上げて涙したテリーファミリー。「ここへ来て良かったよ」…テリーはそう漏らしたという。でも、あの時に資料館に行けたら、彼のその後の人生観も変えられたんじゃないかな…と思った。「名勝負本出来たら送るからね」…それがテリーとの本当のお別れだと思った。その年の11月末、「今年のジャパンカップはどうだ?」と話し掛けて来たドリーの横にいつもいるはずの弟がいない。それが不自然で寂しかった…。

ビッキー夫人と原爆ドームの前で…。

テリーはカムバックした。84年の最強タッグの記者会見後、ファンクスが私を見つけてやって来た。「日本に来る飛行機でジャパンカップに出走するマジェスティーズプリンス(米G1勝ち馬)の調教師が俺たちの隣の席で、ずっと話をしていたんだ。自信がありそうだったぞ。今年はこのアメリカ馬で決まりだ」とテリーが何事もなく笑顔で話しかけて来た。「今年の日本馬は特別強いですよ。三冠馬が2頭(ミスターシービーとシンボリルドルフ)も出るから」と私。「いや、マジェスティーズプリンスが勝つよ」と引かないテリー。そんな会話が嬉しかった。あれだけ大騒ぎして引退したのに…と引いたファンも多かった。「テリーを見ればわかる、プロレスラーに引退はないんだ」なんて揶揄されたりしたけど、私は彼の復帰を歓迎した。お金も必要だったはずだけど、元気になって大好きなプロレスにのめり込めるのなら、それに越したことはないじゃないかと…。テリーは引退したのではなく脱皮したのだ。もうアイドル路線は限界だったけど、全日本の後は日米でハードコア路線に切り替えて、あのあと30年もリングに立ち続けた。すごい人ですよ。

 で、84年のジャパンカップはどうなったのかというと、第4回にして日本馬が初めて勝ったから驚きだ。勝ったのは三冠馬ではなく大逃げを打った伏兵のカツラギエース。シンボリルドルフが3着で、ファンクス推しのマジェスティーズプリンスは4着。ミスターシービーは10着の大敗。その結果を私から聞いたテリーはこう言った。「人生と同じ…なにもかも上手くいかないものだなあ」。

 

あれから39年…先に天国へ行った竹さんとウォーリーが作った『さよなら テキサスブロンコ GOOD BYE! TERRY』のエッセイ写真集を読み返してみる。その中の最後の項にテリーが直筆で書いたエッセイがあるので、抜粋して紹介しよう。

「俺が引退したらどうするかって? 多分、ウチの玄関先に座ってキリンビールを飲み、納豆を食って、残りの人生ずっと屁をこいていたいな。とにかく遊びたい。(中略)俺は死ぬまで笑い続けたいんだ」。

テリー、最期は笑っていたのかなあ…。今度こそ、ロンググッドバイだ。

“テリーさん、日本の馬もアメリカに遠征してG1レースが勝てる時代になったよ。今年のジャパンカップの結果は天国へ報告するね”。

 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅