ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第560回】50年前の札幌

 今回の北京オリンピックには助けられた。何をやっても集中力に欠けていた中、唯一悲しみを忘れさせてくれたのがオリンピック中継だったからだ。特に大会期間中予選リーグから決勝戦まで、ずっと出ていたロコ・ソラーレの笑顔には救われた。それにしても今大会は15競技109種目もあったんだね。個人的に好きな種目はダウンヒル(滑降)、ジャンプ、女子カーリング、スノーボードは全種目、スピードスケートは勝負の一目でわかるパシュートやマススタート。それとボブスレー、リュージュあたりか。どの競技も神業のように思える(プロレスごっこは出来ても、ハーフパイプやビッグエアごっこは出来ない…)。

昨年5月、北見市大空町の道の駅「メルヘンの丘めまんべつ」で発見。

 50年前。1972年の札幌五輪は6競技35種目しかなかった。私はあの時、足を骨折していて自宅静養中。学校に行けずにずっとテレビの五輪中継にくぎ付けになっていた。正直な話、それまで冬季五輪というもの自体を知らなかった。前大会が1968年フランスのグルノーブル五輪なのだが、日本でテレビ中継があったのか知らない。後に同五輪の記録映画『白い恋人たち』とフランシス・レイの名曲が有名になり、ジャン=クロード・キリーがアルペンで三冠になったことを後付けの知識として仕入れる(コカコーラのCMにも出ていた)。グルノーブルでの日本のメダル数はゼロ。それよりも日本人の視線は9月のメキシコシティ夏季五輪に向かっていたように思う。

 札幌五輪の時期のプロレス界は悲惨なものだった。前年末にアントニオ猪木が日本プロレスを追放され、1月末に新日本の道場開きをしたが、旗揚げはまだ先って感じ。日本プロレスは2月1日にルイス・フェルナンデスが岐阜で急死してドヨーンと暗い雰囲気。シリーズ後には馬場がフロリダへ、坂口がロスへ出発している。坂口はUNヘビーを奪還するためだった。猪木が返上したUN王座の決定トーナメントをバンクーバーでやって、キング・クローが新王者になったなんて、その頃から何か怪しいと思っていた(実際にやってない)。それならばバンクーバーに乗り込めばいいのに、なぜいつもロスで(?)…と思った。クローvs坂口が現地時間の2月11日。日本時間ならば真駒内でスピードスケート、手稲山でボブスレーの決勝があった日である。

坂口vsキング・クローのUN戦。

 札幌五輪期間中のプロレス番組はどうなっていたのか…。開会式の翌日、2月4日に全競技が各競技会場でスタートしている。この日が金曜日で、午後8時のプロレス中継が大木vsマリオ・ミラノのアジア・ヘビー級選手権他(1月15日、徳山市体育館収録)。70m級ジャンプで日本人唯一の金メダリストになったエースの笠谷幸生がラージヒルで横風に煽られて失速したのが2月11日の金曜日。この日のプロレス中継は馬場vsザ・ストンパーがメインの岐阜市民センター(1月30日収録)。これがルイス・フェルナンデスのライトファイトだったが、放送枠外の第5試合で上田に反則勝ちしている。

大木vsミラノのアジア・ヘビー。

 国際プロレスはTBSの中継が新春シリーズに30分に短縮された(水曜19時~)。2月1日、最終戦の大阪府立体育会館でストロング小林がローム・マスク(正体はジルベール・ボアニー)を破ってIWA世界ヘビー級王座を防衛。そこから3月末まで1ヵ月半以上の長いオフに入る。札幌五輪が開幕した翌日、国際の選手たちは茅ヶ崎海岸で合宿をしているが、本当に泊ったのかは不明。五輪期間中の録画放送は2月9日のみ。カードはサンダー杉山&ラッシャー木村vsローム・マスク&ジ・アベンジャー(正体は初来日のハム・リー)の富士市体育館(収録は1月20日)。この日だけは30分ではなく1時間枠だったような…。

 とにかく72年2月はプロレス界自体が沈んでいた。日本スポーツ出版社ではジャネット・リン(女子フィギュア銅メダリスト)の増刊号を急遽作る。「プロレスが落ち込みかけていたからねえ。だから世間が大注目していたジャネット・リンの写真をいろいろ搔き集めさせて作ったんだ。それは売れたよ」と、後年、小柳幸郎編集局長が私に話してくれた。

 そういえば、70年代後半に会社の倉庫にあのジャネット・リン本が何冊か転がっていたけど、あれ、持っていたら、少し価値出たかもね(私自身はフィギュア銀メダルのカナダ人カレン・マグヌセンのほうがお気に入りだった…)。後に新日本の真駒内室内スケート競技場(フィギュア、アイスホッケー、閉会式)へ取材に行った時は“ここでジャネット・リンが尻もちついたのか”と感激する。それと月寒室内スケート競技場(アイスホッケーで使用)もプロレスで行ったと思うが、いつだったか思い出せない。

 そして札幌五輪で心に残るのが、トワ・エ・モアが唄った『虹と雪のバラード』。時代を超えて心に残る名曲である(よくカラオケでデュエットしたなあ)。選手村でも多くの選手たちが憶えて帰ろうと必死に歌のレッスンをしたとか。50年間、これを超える五輪テーマソングは存在していないと思う(ピンキーとキラーズ、天地真理のカバーも良かった)。今は大倉山ジャンプ競技場に詩碑があるようだ。

 札幌は五輪以前から私の憧れの街だった。小学校1年生の時の同級生〇〇君は、近所なこともあってとても親しかった。祖父が元北海道知事で、彼は夏休みになると札幌へ行っていた。そして「札幌のラーメンは味噌汁の中に麺が入っているんだよ。味噌味のラーメンなんだ」と衝撃の報告。「ナニそれ!どんな味がするんだ。でも食ってみたい!」。びっくりすると同時に遠く遥か彼方の街、札幌への幻想が広がる。

味噌ラーメンと『虹と雪のバラード』の詩に惹かれて、私自身が札幌に最初に訪れたのは五輪の3年後。バイクで行った。笠谷ら日の丸飛行隊が金・銀・銅のメダルを独占した宮の森シャンツェ(ジャンプ競技場)にも行った。ラーメン横丁で味噌ラーメンも食べた(旨し!)。ジンギスカンも最高だった。カニも美味い。

その後、プロレスの取材で札幌には毎年2~3回、何十回も出張することになる。中島体育センターは私にとって戦場だった。ある時、馬場さんが囲み取材の時にこんなことを口にした。「何で、札幌になると、こんなに記者が多いんだ?みんなそんなに札幌がいいのか?」とニヤッと笑った。その含み笑いの中に“お前さんたちの札幌って、すすきの、のことなんだろ”と私は読み解いた。どう受け取られてもいいや、俺はこの街に憧れ続けてきたわけだから…。なので私は馬場さんの前で大きく頷いてみせた。“じゃあ、馬場さんは札幌が嫌いなの?猪木さんは大好きだと言っていたよ”と言い返したかったけど、それはゴクンと飲み込んだ。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅