ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第629回】ドタバタの講義 

 先週の日本時間金曜日の朝、メキシコ国立歴史人類研究所(INAH)とメキシコ国立世界文化博物館(MNC)が主催するシンポジウムにCMLLのOKUMRA選手と元井美貴さんとオンエアで出演した。当初はZOOMだということで、アプリをスマホとパソコンに入れて、ヘッドセットも買ってスタンバイ。でも前日、ZOOMではなく、これで…という変更があった。本当に繋がるのか心配で本番1時間前からリハーサルをしようと提案したが、結局20分前に…。そこがいかにもメキシコ人…。そこからやっぱり私だけが繋がらないと大騒ぎになる。向こうの声や画面は届いても、私の声と画像が行かない。仕方なくそのままでプログラムは進行していく。 

これが今回のプログラム

 それで私の出番の直前に、どうやったのかわからないけど、スマホの方で映像と音が繋がる。ZOOMか…。でもパソコンが近いのでハウリングするからパソコン側をOFFにした。だから実際の私の映像がどう流れていたのか、私は知らない。後で、生視聴していてくれたノンフィクション作家の小林照幸さんが送ってくれた画面写真を見て「ああ、こんな形で流れていたんだ…情けなや」と思った。 

情けなや…こんな中継だったのか。

正直な話、出演がOKかだけで事前に何を議題に話すのか、どんなことを話せばいいのか、「こういう話をしてください」とか何一つ聞かされていなかった。ただ簡単な自己紹介のスペイン語の文章にして送っただけ。本番はシンポジウムというのでディスカッションなのかと思った。私の出番は40分くらいとだけ言われる…。えっ、ということは一人語りなの? そんなこともわからずにプログラムは進行していく。OKUMRA選手、元井さん、ウーゴ・モンロイ・オリベラ(CMLL事務所)の話を聞いていて、ああ、やっぱりこういう一人語りでやるのか、と知る。その後、喋ったことに対するリアクション…意見交換があるわけではない。トークショーみたいに相手の顔も見えないし、反応が即座に返って来ないわけだから、いやいやこれ、かなり難しいぞ!と困惑する。 

本当はこんな感じで…

 ここは自分のプロフィールを語って、自慢話を並べてみても面白くない。第一、主催者自体がルチャ関連ではなく、メキシコ国の歴史の中枢の最高機関じゃないか。だからメキシコ側の視聴者がルチャファンとは限らない。いや、そうではない人もかなりいるはずだ。INAHはティオティワカンやアステカ、マヤなどの古代遺跡の調査・研究を一手に引き受けている国立研究所だし、MNCはパラシオ・ナショナル(国立宮殿)の一角にある由緒正しい国立博物館…だからルチャファン向けの話だけをしていてはいけないと思った。テーマらしきものが「ルチャを通した日本との文化交流」だったから余計である。 

 それと私はこのプログラムの視聴方法を、フェイスブックを通じてメキシコたけでなく日本の友達たちにお知らせしている。だから視聴しているのはメキシコ人だけではなく日本人もいる。そこも意識して即興で話を構成するしかないと思った。軽く私自身の紹介をした後、以前にこのコラムで書いたことのある1609年に千葉県御宿でイスパニアのサンフランシスコ号が座礁・沈没し、地元の村民が乗組員(スペイン人とメキシコ人)300人を救出して匿ったという話から始める。徳川幕府は彼ら全員をメキシコに送り返した。今から414年前の話である。そこが日本とメキシコの最初の接点で、今も御宿とメキシコは友好関係にあってイベントも催されている。次にその4年後、伊達政宗の命を受けた支倉常長(はせくら・つねなが)がスペイン国王に拝謁するため石巻市の月浦湾から出向し、アカプルコに到着する。日本人が自力で太平洋を渡り北米大陸=メキシコに到達した最初の例がこれで、アカプルコには支倉の銅像もある。支倉一行はクエルナバカ経由でメキシコシティへ到着し、そこでたいそうな歓迎を受けたという。メキシコの人たちはこうした話をどの程度、知っているのだろうか。ここもリアクションがないので話を進めるしかない。 

支倉常長の銅像。

 本当はこの後、1888年(明治12年)に明治政府とメキシコ政府が日墨修好通商条約を結んだ話もしたかった。これは日本初の不平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国との初との条約締結であった。メキシコ大使館が他に例のない永田町の超一等地にあるのは、この条約締結のお礼に政府の用地を与えたためだったと言われる。ちなみにマスカラスがホテルニュージャパン(日本プロレス)の後、全日本の定宿の銀座東急や高輪東武でなく単独で赤坂東急ホテルに泊まったりしていたのは大使館が近いからだった。 

赤坂東急のマスカラスとチャコ。

 1897年(明治30年)からメキシコへの日本人移民が始まった。その中、米国経由で日本人メキシコ入りした日本の空手家や柔術家もいたようだ。そんな一人がグレーシー柔術の祖コンデ・コマこと前田光世で、1907年にメキシコ入りして柔術の指導をする。それと同時に欧米のボクサーやレスラーたちを呼んで異種格闘技戦のようなプロレスの原型となる興行を75回主催し、自らも26戦25勝の戦績を収める。しかし、1910年のメキシコ革命への不穏な情勢を察知した前田はメキシコを退去する。そこは歴史を重んじる研究機関を意識しての話題である。さらに1933年のEMLL旗揚げの翌年に日本とフランスで柔術を学んだゴンサロ・アベンダーニョ師範がサルバドル・ルテルロ・ゴンサレス代表の依頼で国産ルチャドールの育成を始める。その際、ルチャ・リブレならではのレスリングスタイル(腕の取り方、投げ方、関節の極め方…)もアベンダーニョが作り上げたといわれている。つまりルチャの根底には日本の柔術の技術が入っているということだ。これもまた日本とメキシコの知られざる文化交流の先駆けといえよう。また今回、持ち時間を意識して話には出さなかったけど、EMLL旗揚げ時にメインを張った逆輸入メキシカンスターのヤキ・ジョーや初期エストレージャであるフランスコ・チャロ・アグアヨはテキサス州エルパソで日本人初の世界(ウェルター級)王者マティ・マツダ(松田万次郎)からプロレスを習ったと伝わる。つまりルチャ・リブレの根底には日本の柔術、相撲、柔道などの技術が組み込まれていることを私は伝えたかったのである。 

マティ・マツダとチャロ・アグアヨ。

 その後も1956年に初めて日本に来たメキシコ人ルチャドール、ラウル・ロメロやその返礼でメキシコに渡った木村政彦と清美川のことを話す。さらには次に日本に来たメキシコ人ブラック・ゴールドマンの事と、一大旋風を巻き起こしたミル・マスカラスの存在は私の口からしっかり伝えるべきことだと思った。そして逆にメキシコに日本プロレスから初めて修行に出たミステル・コマとヤマモト(星野勘太郎)についても語らせてもらう。その先に話した日本とメキシコのルチャ交流についてはここでは割愛するが、まだ見られてない方はこちらから視聴できるはず!? 

https://www.youtube.com/embed/wx57USywqUE

 ドタバタの即興の講義だったけど、何とか話はまとめられたかなと…。その後、エル・サタニコやアポロ・ダンテス、ランボー、ネグロ・ナバーロ、エル・アルコン、パンディータ、エル・パンテーラ、ボビー・リーの娘カルラ、アレハンドロ・ロドリゲスの娘エステリータから「観たよ」、「元気そうだな」、「知らないことがいっぱいあった」、「面白かったよ」、「我々と日本人は永遠のアミーゴだな」といういろんなメールを貰った。日本のアミーゴたちからも「ドタバタ大変でしたね。ご苦労様でした」、「同時通訳で聞きやすく勉強になりました」、「時系列でわかりやすかった」、「さすがです。別の機会に生でもっと詳しく聞きたいです」といった声が届いた。両国のみなさんからのご意見を読んで、やって良かったかな、いい経験が出来たと思った。これで9月に日本人として胸を張ってメキシコに乗り込みたいと思う。そこで410年前の支倉常長のような歓待を受けたいものである。 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅