ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第621回】うなぎとベルト

 先週の木曜日は佐山さん親子、初代タイガーマスクのマスク職人の中村之洋夫妻と一緒に鰻を食べに行った。数年前、中村氏が主催した佐山さんとのトークイベント後に上野の『伊豆榮』に行ったことが発端で、そこから「うなぎクラブ」(仮称)がスタート。以後、佐山さんご推薦の浅草『色川』、私がずっと行きたいと思っていた目黒不動尊の『八つ目や にしむら』などで不定期開催。今回は私の推薦する日吉の『天然うなぎ しま村』で第5回大会が開催された。ここはミシュラン一つ星の高級店。養殖もあるが、現在では超貴重とされる天然うなぎもある。日本人の口に入るうなぎの99%が養殖で、天然ものは1%といわれる。「せっかくだから天然をいきましょう」と佐山さん。特上重で1万2千円強。養殖ものの倍の高額だ。「天然の鰻は、大海と河川を自由に泳いで自然の餌を食しているので、養殖ものより脂分が少なくてお味はタンパクですよ」というお店の説明を受ける。確かに味はあっさりした感じ。佐山さんや私にはこっちが身体にいいのかも…。う~ん、美味し!だ。

天然うなぎ重。わずか1%価値を食す。

“日本一の清流”といわれる高知の四万十川では、かつて美味しい天然うなぎが食べられた。しかし、数年前に四万十に行ってうなぎ屋に入ったら「今はもう天然はないですよ。稚魚がいないから…」と言われガッカリ。うなぎの生態は謎に包まれていて、稚魚はマリアナ諸島や東南アジアを回遊して日本に泳いでくることまで判明したらしいが、近年、それらの海域でも稚魚がみつからなくなったようだ。海水温が上昇したためか…。

「ここの天然ものは何処の川で獲れたものですか」と尋ねると、「吉野川です」とお店の方。「四国三郎」と呼ばれる吉野川の水源は愛媛県にある日本三百名山・瓶ケ森で、上流域は高知県、中流と下流は徳島県。県の東西を中央構造線に沿って真っ二つに裂くようにして流れ、紀伊水道に至る大河である。ちなみに太郎は「坂東太郎利根川」、次郎は「筑後次郎筑後川」…この三つが日本最大暴れ川で、古来そう呼ばれてきた。そうそう、美空ひばりの『川の流れのように』を聞いて、私の頭に浮かぶ川は、いつも吉野川…なのです(ホント一番ぴったりくるよ…)。

今春、四国お遍路へ行った話をした。一番札所は吉野川の広い河口近くの北側にあって、そこから十番札所まで川の左岸を西へ遡る。その後、Uターンして吉野川を渡って川の右岸(南)の十一番札所から、今度は河口へ向けて徳島市内へ(十七番まで)向うコース。天然のシラスウナギの漁は冬の新月の満潮時に徳島市内の吉野川大橋付近で行われるとのこと。今年上半期の私は吉野川にいろいろお世話になった。そして最後には吉野川のうなぎちゃんも食することが出来て満足…です。いや、その締め括りは徳島出身の新崎人生とのトークショーだな。

 いやいや、その前に今月24日に新間さんとのトークショーがあるね。ゴング少年探偵団と過激な仕掛人との1対3ハンデキャップマッチ。こちらは小林くんと小佐野くんに頑張ってもらって、私はラッシャーではなく切り込み隊長の寺さん(寺西勇)のポジションに徹することにしよう。

  徳島と新間さんの話が出て来たことで、頭をよぎったのがボブ・バックランドvsアントニオ猪木のWWFヘビー級選手権。我らがアントニオ猪木にベルトが移動した歴史的な舞台となったのは、徳島市体育館。天然のシラスウナギの漁をする吉野川大橋あたりから市体育館は南西に2キロくらいの距離しかない。それは79年11月30日…私の23歳の誕生日で、ノビア(カノジョ=後の妻)とデートすることもなく後楽園ホールにいた。『世界最強タッグ決定リーグ戦』の開幕戦で大阪での対決を見据えて、他社の隙を狙ってファンクス&マスカラス・ブラザースの表紙(別冊80年1月号)の特写をしていたのだ。12月7日の大阪での兄弟対決は校了ギリギリのために表紙には出来ないので、4人を絡める絵は、ここで特写するしかなかったのだ。全員を着替えさせて、集合させたのは、他社の記者やカメラマンたちが試合に集中しているセミ前あたりだったか…。それは実に巧妙な作戦だった。

密かに特写した表紙の行方は。

 その夜の裏番組、徳島で歴史的な王座移動が起きていた。最強タッグに話題を奪われたくない、10月の馬場2度目のNWA世界王座獲得への対抗意識…ここに新間さんの意地を見て取ることが出来る。だが雑誌…月刊誌的に言うなら、これは決していいタイミングとは言えなかった。11月30日の徳島での王座移動したものの、12月6日の蔵前で王座預かり。これが一冊に入ってしまうからだ。

「猪木のWWFベルトポーズの写真を使った表紙も用意していたよ。もしも6日の蔵前で猪木が防衛したら、そっちで行こうと…。結果を観て、ギリギリまで止めていた凸版印刷に“そのままでファンクス&マスカラスのほうを刷っていいよ”と電話した」。さすが竹さん、抜かりない。表紙を2つ用意することは、ゴングではこの後も何回かあった…。

徳島で藤色のベルトを奪取!

 さて、あの時、アントニオ猪木が締めたWWFベルトは藤色のニキタ・マルコビッチ製。第十一番札所藤井寺の藤棚を見ると「猪木、徳島でWWF奪取」を連想するのは間違いなく私だけだろう。前年の武道館でのバックランド戦でチャンピオンが締めていたのは青革のベルトだった。この年の3月1日付けでWWWFからWWFに名称変更したために青から藤色に造り直されたのだろうか。WWWFがマルコビッチ製ベルトにしたのは72年9月のMSG定期戦からと思われる。当時の王者がペドロ・モラレス。在位1年半にして2度のモデルチェンジだったといわれる。この時の革の色はエンジで中央プレートの鷲は銀色で羽根は平行。しかし、73年12月のブルーノ・サンマルチノ奪還以降、ベルト素材は同じエンジの革だが、鷲は銀色で羽根が吊り上がったものにデザインに変更されている。この羽根が吊り上がったエンジ色のベルトはビリー・グラハム政権に受け継がれ、次第に痛んでいく。

モラレスのベルトの鷲は羽根が平行。
ブルーノのベルトの鷲の羽根は上向き。

 先週書いたマスカラスがWWFベルトをビンスに貰ったという話。眉唾ものと思いながらも改めて再検証してみよう。ブルーノから77年4月にグラハム移ったエンジ色のベルトは少なくとも同年10月24日のMSGでのダスティ・ローデス戦まで使われていることがわかった。ちなみにマスカラスは同日MSGでジャック・エバンスと試合している。11月末も同様、マスカラスはMSGの前後にWWFのサーキットに入っている。11月の定期戦でグラハムが何のベルトだったかは不明だが、12月の定期戦、マスカラスとの防衛戦では青革のベルトに変更されていることもわかった。革だけでなく中央やサイドプレートにもたくさんのダイヤガラスが埋め込まれた豪華仕様のものだ。マスカラスはビンスから「ニューヨークに家族と一緒に移住して来ないか」と誘われたのは、この秋の話である。青いベルトはマスカラスのためのものとして造られたのか、その誘致に失敗したのでバックランドのためのベルトになったのか…。私は来るNWA世界王者とのダブルタイトルマッチに備えて、古く傷んだものではなく豪華なベルトで対抗しようと見栄を張って造らせたのではないかと推測する。ただ前年秋頃のビンスの初期プランは、マスカラスvsレイスのダブルタイトルマッチだったのではないか…と考える。それがグラハムvsレイスになってしまったが、ヒール対決ではMSGではマズいと考えて急遽、ベビーとして頭角を現していた安パイのバックランドを王者にとスライドしたのではないか…と思っている。

12月のマスカラス戦の時はもう青ベルトに。

 とすると、10~12月頃、ビンスから「このベルト使わなくなったから、持って行っていいよ」とマスカラスにプレゼントされた話もまんざらではなくなる。ならば、自宅倉庫にあると豪語するベルトは、ブルーノからグラハム時代のエンジ色の貴重なベルトということになるじゃないか。それも「WWWF」と刻印された歴戦の代物。その真偽はともかく、こんな感じで誰かさんにぽんぽん上げていたから歴代のWWFのベルトが消えてしまったのかもしれない…。

そういえば、マスカラスも鰻が好きだった。マスカラスから「イール」=鰻という単語を教わった。メキシコには鰻を食う習慣はないようで、クリスチャン・シメット弁護士に奈良で鰻を食べさそうとしたら断固拒否された。「蛇じゃないよ、魚だよ」と言っても、ダメと気持ち悪るがられた。その点、マスカラスは日本食なら何でも食うから助かる。今日は、吉野川の天然うなぎから…またもWWFベルトの話になってしまった。どちらも謎だらけで希少価値が高いということ。お後がよろしいようで…本日のドクトル与太話はお終い。

 

 

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