ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第567回】鳥取の追憶 (1)

 5月4日(みどりの日)に『闘道館』でトークショーをすることが決まった。今年1月にやるはずで、コロナ蔓延のため無期延期にしていた「マッハ隼人を偲ぶ会」をリメイク発進させます。題して『マッハ隼人復活祭』(ヒバ・ラ・ルチャVol.44)。マッハのナンバー1の大親友である国枝一之氏、マッハの大の研究家である冨倉太氏とともに故人の奇想天外な生きざまを語り尽くそうと思う。当日はご家族から提供された遺品や実使用マスクの展示、未公開映像、未公開写真も公開したいと思う。こんな他に類例のないプロレス人生があったのかを知る唯一の機会なので、元マッハファンだけに限らず、是非、ご来場願いたい。

 さて、私は3月末から近畿・中国地方を旅していた。妻の遺影を持っての旅だった。近江・若狭・丹波・但馬・伯耆・美作を巡る2000km超の旅。今回、一番遠いのが鳥取県。鳥取の町を朝っぱら走っていたら、「あれっ、ここは!」と思わず立ち寄ったのが天神町のある鳥取産業体育館。懐かしさが込みあがる。鳥取というと、誰もが最初に浮かぶのは鳥取砂丘だろう。それと最近都内ではあまり見なくなった20世紀梨。あとは…。人口密度の低さは山口県に次ぐブービーで、47都道府県の中でもマイナーに分類されてしまう寂しい立ち位置の県である。ちなみに鳥取市はマキ上田の出身地。

 鳥取市で初めてプロレスが行われたのが1957年8月22日(会場名もカードも不明だが、市営球場か…)。次が61年6月25日の鳥取市立体育館で、メインが力道山&豊登vsアイク・アーキンス&ジム・ライト。この日のアンダーで馬場正平vs長沢秀幸、猪木寛至vsユスフ・トルコが行われている。東京五輪の3年前に体育館があったということは、決して遅れた市ではなかったということである。62年6月30日が力道山存命中最後の鳥取で、馬場は渡米し、猪木は遠藤幸吉と戦って敗れた。64年は5月3日の鳥取市体育館で、メインは豊登&ジャイアント馬場&ミスター・モトvsジン・キニスキー&ジ・アラスカン&ロイ・マクラリティ。65年は7月9日。メインは馬場&吉村道明vsザ・デストロイヤー&ドン・マノキャン。66年10月7日は市立体育館で試合をしている。メインは馬場&大木&ミツ・ヒライvsゴリラ・モンスーン&フリッツ・フォン・ゲーリング&ボブ・ボイヤー(猪木は東プロ旗揚げ直前で不在)。日プロは年1回のペースで必ず鳥取へ来た。ただし、この市立体育館のあった場所は、今回リサーチ不足で確認できなかったが、たぶん吉成3丁目にあったと思われる(後の市民体育館のあった場所)。

鳥取市街と日本海を遠望。

鳥取でのプロレスと言って一番有名なのは、67年5月5日の『第9回ワールドリーグ戦』第22戦で、テレビが生中継…それは東プロ崩壊後にアントニオ猪木が日プロに復帰した第1戦だった。鳥取は猪木復活の地である。セミで吉村と組んだ猪木はダン・ミラー&マイク・デビアスと戦い、コブラツイストでデビアスをギブアップさせて復帰戦を飾った。猪木が帰って来て、格好良く勝ってホッとした気持ちでいたら、衝撃的なことが起こる。メインの公式戦でデストロイヤーがワールドリーグ2連覇を狙う本命の馬場をコブラでギブアップさせたのだ。猪木のコブラよりも、魔王のコブラのほうが衝撃的に私の目に映った。昭和42年の子供の日は、コブラ祭りだった。ちなみに初のBI砲初結成は翌週12日のテレビの岐阜大会である。

同じ県内なのにライバル心を剥き出しにする都市と都市が全国にはいろいろある。例えば福島県なら福島市と郡山市、群馬県ならば前橋市と高崎市、埼玉県ならば旧浦和市と旧大宮市、静岡県ならば静岡市と浜松市、三重県ならば四日市市と津市、滋賀県ならば大津市と彦根市、岡山県ならば岡山市と倉敷市などなど…。鳥取県の場合は東の鳥取市と西端の米子市が県民ならではのライバル都市である。66年10月に日プロは米子市山陰日日新聞跡広場、67年5月には海岸広場などで興行を打っている。61年と62年の力道山時代もそうだが、いつも、野外ばかりだった。それが鳥取市に負けじと米子も市民体育館を完成させ、69年7月に日プロが興行を打っている。両市は91Kmと絶妙の距離だったため、連日で大会が打たれることしばしばあった。でも、鳥取市とは興行師が別々だったはずだ。

米子に対して鳥取市体育館では70年6月19日、BI砲vsアサシンズがメインで、翌年10月12日にも『第2回NWAタッグリーグ戦』が開催される。ところがこの日のメインでボブ・エリスと組んで大木&ヒライを破ったカウボーイチームの片割れのフランキー・レインが翌朝7時に婦女暴行で逮捕されるという事件が起きる。それが鳥取市内だった。暴行された被害者は子供を見送っての帰りに自転車の乗っていた時だったという。それも60歳近い中年女性をだったというから呆れる。レインはアメリカに強制送還されるが、ロスに帰って何事もなかったように女性ファンにチヤホヤされ、事件から2ヵ月後にアメリカスとパシフィックコーストの2冠になっちゃうから余計呆れた。

鳥取では双頭の鷲のマスクだった。

レインにミソを付けられた鳥取…でも1年、間を開けた72年の5月28日が日プロにおける最後の鳥取大会となる。メインは馬場&坂口vsジョニー・バレンタイン&ボビー・ダンカン、3度目の来日のミル・マスカラスはグレート小鹿と対戦。この日にマスカラスが被ったマスクが後にドス・カラスのマスクデザインとなる双頭の鷲だった。鳥取で被った「鳥マスク」ということか…。翌日が米子だったのでたっぷり時間があるので、マスカラスは他のガイジンたちと鳥取砂丘観光を十分楽しんだ。

鳥取砂丘を満喫するマスカラス。

国際プロレスは67年8月3日に鳥取市体育館を初使用。メインはヒロ・マツダ&豊登vsダニー・ホッジ&ビル・ドロモ。72年10月9日の2回のみ。この日にメインはグレート草津&田中忠治&寺西勇vsビル・ドロモ&リック・フェララ&バッファロー・ザリノフ(ドロモは国際で2度も鳥取に来ている)。国際は米子が5回で鳥取市よりも回数が多い。その72年は5月14日には旗揚げ第2弾の新日本が鳥取市体育館を使用している。何と、それはマスラカスたちが来る2週間前のことである。この日のメインは猪木&豊登vsティンカー・トッド&ジョージ・ハイドマン。つまりたった2週間で新日本と日プロがニアミスしたということだ。この72年は12月12日に旗揚げ第2弾の全日本が米子市体育館に早々と進出しており、県内では4団体の「仁義なき鳥取抗争」があったということになる。こういう一見してのんびりしたように見える鳥取の街でも過去にいろいろあったんだなあと改めて思った。来週もこの鳥取話の続きを…。

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