ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第566回】1本勝負の功罪

2週間前のコラムで1972年の新日本『ニュー・ゴールデン・シリーズ』からそれまで60分3本勝負で行われてきたアントニオ猪木のシングルが60分1本勝負になったと書いた。そこに多くの猪木信者を生み出していくヒントがあると思ったので、今日はそのことを書こう。長く3本勝負で育てられた私などは1本勝負だと、観ていて損した気分になる。3本あれば、相手のガイジンの得意技、決め技をしっかり見届けることが出来る。これは私のようなガイジンLOVEのファンだから思うことなのだろうか…。いや、あの力道山の時代からガイジンをお客様として迎えたので、メインは3本でやるのがアメリカ流、それを礼儀としていたように思える。

60分1本の始まりは72年のシン・リーガン戦から

そうした歴史を無視して1本で押し通したところに猪木ならではの作戦が見てとれた。1本ならば勝つか負けるかだけの真剣勝負に見える効果があるし、ピンを取られることなく勝てば自分を強く見せることにも繋がる。気を遣ったのは翌73年12月、ジョニー・パワーズとのNWF戦。この時は選手権らしく見せるためか、パワーズに忖度してか、3本勝負でやった。NWF戦では他にアーニー・ラッド戦、ビル・ロビンソン戦、シンの数試合を3本勝負で、ストロング小林と大木金太郎の日本人対決の時は1本勝負でと使い分けた。でもテーズ戦は3本勝負にしてほしかった。テーズがバックドロップで1本取るところを見たかったというのは、私だけではあるまい。鉄人を年寄扱いしてほしくなかった(同年7月のマスカラス戦は3本勝負)。76年3月16日、蔵前のパワーズとの防衛戦を最後に猪木はシングルの3本勝負を封印する。ただし、バックランドとWWWF王座が懸った78年の武道館のロングバトルの2連戦は3本勝負で、カネックの挑戦を受けた79年4月22日のエル・トレオのNWF戦は郷に従って3本で行われている。

(写真2)

国内NWF戦の3本勝負は76年のパワーズ戦まで。

一方、全日本のPWF戦は81年10月まで、UN戦は82年1月まで3本勝負でやっていて、以後1本勝負へと切り替わる。NWA世界戦は84年まで時々1本勝負も混ぜながらしばらく3本ルールを続けた。せっかちな1本と、のんびりの3本の差が、猪木信者を増やしたように思える。何しろ、1つも取られることなく、自分だけが取るのだから、それは強く見えるはずである。かたや、馬場も鶴田も平気でピンを取られるのだから、イメージ的にも強そうには見えない…。猪木の築いたストロングスタイルとは1本で勝負をつける!あやふやな結果にせず、ガイジンに対して忖度なしに潰してしまう!こういう要素が多分に含まれていると思える。3本勝負でストレート勝ちをするのではなく、1本で終らせてしまう…それを旗揚げ年の秋から有無も言わせず貫いたことが「燃える闘魂」構築の第一歩だったように思える。

しかし、タッグは違う。NWAの北米タッグなどは81年春に封印されるまで、ずっと3本勝負だった。猪木は75年12月に坂口とのコンビを解消してベルトを返上したが、地方のノーマルなタッグマッチでは60分3本勝負のメインに出続けている。タッグならば3本勝負のままでも構わないという感覚なのだろうか。ドサでは「プロレスは3本勝負」という意識がかなり根強かったであろうと思われる。北米を返上したことで猪木が普段のタッグマッチで1本取られることはほとんどなくなった。それは少しでも弱みを見せない=ストロングに繋がる。

そんな新日本タッグ路線にも1本勝負化の足音が忍び寄る。81年10月23日、沖縄・奥武山体育館の猪木&長州vsブッチャー&ビリー・クラッシャーは60分1本勝負だったが、翌日からは3本勝負に…。11月4日の大和車体工業体育館の猪木&藤波vsブッチャー&スティーブ・トラビスもなぜか60分1本。『第2回MSGタッグリーグ戦』中も公式戦以外のメインは60分1本になる。ただし、11月28日の富士急ハイランドの6人タッグは60分3本だった。ここはテストケースで、82年から1本に統一されるのかと思ったら、再び3本勝負が継続される。この一貫性のなさは何なのかと思った。

すると例の「噛ませ犬事件」…10月8日、後楽園ホールの6人タッグが唐突に1本勝負になる。4日後の大田区体育館も1本だったが、シリーズの他の試合は全部3本勝負。またラッシャー木村ら国際軍団絡みの試合は総じて1本(ただし、1対3は変則の3本勝負)。『第3回MSGタッグリーグ戦』は公式戦外のメインのタッグは1本なのだが、なぜか12月4日の石巻市民体育館の6人タッグだけが3本勝負。ここでも一貫性のなさに首を傾げてしまう。この頃、「現場へ行って1本勝負だとわかってガッカリした」というファンの意見を聞いたことがある。それもそうだろう、年に1回~2回しか興行の来ない地方都市で、1本で簡単に済まされたら、たまったものではない。生でじっくり聞きたい曲がワンコーラスで終ってしまった虚しさに近い。60分1本の6人タッグは、お目当ての選手の登場機会は少なくなる。選手は選手で、かなり楽が出来たはずだ。

「噛ませ犬事件」も唐突に1本勝負だった。

83年、新日本から遂にタッグの3本勝負は消えた。1月5日の越谷と13日の高知は60分3本で、他は60分1本で行われた。相変わらずバラバラで、その日任せ的な感じ。間違ってなければだが…最後の3本勝負は3月5日、『ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾』の第2戦、群馬県スポーツセンターの6人タッグ…。カードは猪木&藤波&木戸vsアドリアン・アドニス&バッドニュース・アレン&トニー・パリシー。1本目は日本組の反則勝ちで、2本目は猪木がパリシーを延髄斬りからピンで押さえてストレート勝ちをしている。パリシーは67年夏に初来日して猪木のコブラの餌食になったアントニオ・プグリシーである。この前橋の翌日からはすべてが1本勝負となり、3本勝負というものは無くなってしまった…。

全日本はタッグの1本目勝負化が新日本より早い。82年3月22日、『第10回チャンピオン・カーニバル』第4戦の渋川市総合公園体育館の6人タッグ(ブルーザー・ブロディ&モンゴリアン・ストンパー&バック・ロブレイvs馬場&小鹿&大熊)が最後。翌日からシングルと並行するように60分1本勝負を実施している。どっちにしても試合がイージーになったというように実感した。

3本勝負には味があった。試合の駆け引きはもちろん、そこには試合の組み立ての妙味が存在した。1本勝負で前座から、中堅、セミを戦って来た選手たちは、3本勝負というメインエベンターとしての次のステップを踏む。そうして試合の呼吸や間合い、ペース配分、自己演出能力を身に付けていったのだ。かつてメインでの1本勝負は時間無制限とし、馬場vsクラッシャー・リソワスキーの再戦やブラッシー戦など特別な試合、遺恨の決着戦などだけに用いられた。それは猪木vs小林、猪木vs大木などにも当てはまるが、逆に猪木vsロビンソンは3本勝負だったから、名勝負になったのではないかと私は思う…。もし3本勝負でやったら、もっといい試合がいろいろあっただろうと思うものもある。

メキシコでは昔からずっと3本勝負だ(AAAは近年1本に…)。2013年にメキシコへ行ってアレナ・メヒコで久々に3本勝負を観た。その日はアニベルサリオ(創立記念大会)でのラ・ソンブラvsエル・ボラドールのマスカラ戦だった。やっぱり3本は味もメリハリもあっていい…と思った。お互いの得意技が決まって、あるいは奥の手を温存して、という練りに練った攻防は素晴らしいと感じた。インターバルでさえ、次へのワクワク感があっていい。嗚呼、懐かしやであった。

ソンブラvsボラドールの劇的なフィナーレ。

興行は選手数が多くなくても成立する。数よりも質なのだと思う。猪木の日プロ最後の試合(71年12月7日=札幌)は9試合で参加選手は20人(タッグはメインのみ)。タッグまで1本になった全日本の82年3月23日、日立市池ノ川体育館は全10試合で24選手が出場(タッグが2試合)、 同じくタッグが1本勝負化した新日本83年3月6日の後楽園ホールは、全9試合で参加選手26人(タッグが3試合)。選手数が増えるのは仕方ないにしろ、お客が欲するのは、顔ぶれよりも、「じっくりメインが観たい!」ということなのではないだろうか。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅