
陽が少し傾き始めていた。私はリッキー・ダイナマイト(Nスポーツコミッションなよろ 松澤大介事務局長)と出会った名寄市スポーツセンターから、宿泊地である約120㌔先の羽幌へ急いだ。夕方に人と会う約束をしていたからである。昨年行った朱鞠内湖を素通りし、天塩山地の霧立峠を越えて苫前町のある日本海側へ出るコースだが、その苫前の一つ手前の古丹別(こたんべつ)という集落で車をストップした。ここは日本獣害史上最多の死亡者を出した、かの有名な『三毛別ヒグマ事件』(1915年)の事故現場への入口の町である。人口1千人ばかりの小さな町で、私は昨年、この町を通ってその事件の現場へ行っている。“えっ、ホントに!?”……今回出発前に調べていると、この古丹別の町で全日本プロレスが一度だけ試合をしていることがわかったのだ。80年『ジャイアント・シリーズ』第11戦、10月21日の「古丹別中学校体育館」がそれである。

今となっては、かなりレアな秘境プロレスといえるが、80年当時、古丹別には留萌と幌延を結ぶ羽幌線の駅があったのだ(87年に全線廃線)。町に入っておばさんに聞くと「中学校ならば廃校になりましたよ。でも、まだ建物はありますけどね」とのこと。町はずれの中学は2023年3月に廃校になっていて、「ありがとう」の看板があがっていたが、校舎の裏手に体育館が現存していた。工事車両が出入りしていたので、近々取り壊されてしまうのかもしれない。唯一の全日本プロレス古丹別大会のメインはジャイアント馬場&ジャンボ鶴田&ミスター・サクラダvsアブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ&ジ・アストロイド(ビル・アーウィン)。セミがビル・ロビンソンvsグレート小鹿、その下がワフー・マクダニエルvs大熊元司。なかなかのメンバーがこの小さな町へやって来ていたのだ。まさか大熊さんもここがヒグマの大事件が起きた下の町だったとは露知らず、“狼酋長”と戦ったのであろう。

校門を出ると、そこは三毛別へ向かう通称“ベアロード”の起点になる看板があった(15㌔先が三毛別の事件現場)。苫前町では昨年400kg級の、さらに今年4月末には330kgの巨大羆が捕獲されている。なぜ、この周辺に巨大な個体が多いのか……大熊さんでも知らんだろう。

羽幌では昨年お会いしたマスクコレクターの野宮さんと再会。美味しい日本海の海鮮料理を堪能した後に、この1年間で収集したマニアックなマスクを見せていただいた。羽幌という辺境にこんなレアなマスクがあるとは、改めて驚きだ。お陰様で今年も羽幌の夜は楽しい時間を過ごせた(この日はホテル・ブルーデモンで車中泊)。

さて、翌日は羽幌から国道232号線、通称“日本海オロロンライン”を北上する。もうここは道北だ。そして初山別を経て遠別町に着く。稲作最北の町としても知られ、漁業、酪農、林業の町で人口は2千人強。ここにある「遠別町スポーツセンター」には79年7月14日に新日本が来ている。道内の細かい市町村での興行は国際と全日本の得意技なのだが、ある程度大きい町でしか試合をしない新日本が……なぜ、こんな小さな町にやって来たのか……。それには訳があった。遠別は“帰ってこいよ”で有名になった歌手・松村和子の出身地。その父親の一郎氏は『北海芸能プロダクション』の代表で、新日本のプロモーターとして苫小牧や岩見沢などを担当していた。今回の旅で言えば初日の富良野もそうだし、日高管内も松村氏のテリトリーだった。つまりこれは松村一家の故郷・遠別での凱旋興行だったのだ。この日のメインは猪木&ストロング小林vsレロイ・ブラウン&マサ斎藤で、セミは藤波vsトニー・ロコ。ウルトラマンはジョージ高野に勝っている。当日は日曜日なので午後2時試合開始。翌日がオホーツク側の紋別だったので試合後に名寄くらいまで移動していたと思われる。体育館は閉鎖されているようで、窓から中を覗いたが使われている様子はなかった。“帰ってこいよ”ではお岩木山(津軽富士)のことを唄っているが、松村和子の目には故郷遠別の水平線の彼方にある利尻富士が映っていたのではないだろうか。

さて、私は遠別町から日本海を離れて内陸に入る。クビナガリュウが発掘された佐久という町で日本第4位の長流・天塩川にぶつかり、そこから稚内へ通じる国道40号線を北上する。目的はラッシャー木村の故郷・中川町へ行くことだった。まずは天塩中川駅へ行って雰囲気を感じ取ってみる。

先日の三条市での馬場さんの生家ではないが、ここまで来たのならばラッシャーの生家も探してみようと思い、町役場を訪ねてリサーチ開始。前日、名寄スポーツセンターの松澤事務局長が「木村さんの家はお寺だと聞いたことがあるんですけど、定かなことはちょっと……」と言っていたので、役場の方にそれをぶつけてみた。「お寺ではないです」と即答される。その後、いろいろ調べていただいた結果、こういう答えが返ってきた。
「もうこっちには木村さんのご親戚は誰もいらっしゃらないですけどね。実家があったのはここから北へ8㌔くらい行った歌内という集落で、宗谷本線の歌内駅も廃駅になってしまっています。集落といっても歌内にはもう3軒くらいしか人家が残っていません。でも、廃校になっていますが、歌内の小中学校ならば建物が残っていますよ」
「えっ、小中学校の建物が残っているんですか!」
最高の情報を手に入れた私は教えてもらった通りに線路沿いを北上すると、歌内の駅跡を発見。乗降者がいなかったからだろう……2022年に廃駅となっていて、線路こそ現役なのだがホームは雑草に覆われていて確認するのも難しかった(列車が来ると危険なので退避)。


歌内の元駅前には確かに3軒の寂れた民家があるだけで、他には何もない。大正末に開業したという歌内駅、明治末に開校の歌内小学校があったというのだから、昔はそれなりの世帯がある栄えた町があったのであろう。不在だろうとダメもとで3軒の民家を訪ねて情報収集する作戦に出る。すると一軒目の裏から雑草を刈る機械音が聞こえて来た。草を刈っていたのはかなりご高齢の男性で、耳が遠いのでご自宅に戻って筆談となった。ボードに書いて来訪の目的を伝えると、「私はラッシャーの兄貴と同級生じゃったんだよ」と言うからビックリ。92歳だという老人は、喋りはしっかりしていた。「ラッシャーの親父は宗谷本線の保線作業員をしとったんじゃよ。生家は取り壊されてもうない。ラッシャーの父親の兄貴が家長で、農業から酪農に転身して、木村一族はそこにまとまって住んでおった。妹もいたな。その叔父さんも、父親も、兄貴も、みんな身体が大きかったよ。ラッシャーは私より6つくらい年下だからまだ大きくはなかった……でもあんなに大きくなるとはな(笑)。木村家の跡地でいいなら連れて行ってあげるよ」
ということで、ブルー・デモン号に同乗して2分ほど行った場所で降りる。生家跡とは73年末に廃校になった歌内小中学校の校門のまさに目の前だった。「今は農地になっているけど、ここに木村家が建っていたんじゃ」。政雄少年は家を飛び出して通りを横切って登校し、校庭で駆けずり回り、相撲を取っていたのだろうと想像できた。「手前の校舎は昔のまま、奥の体育館は後から出来たものじゃよ」。

「歌内小学校は昭和22年頃から中川中学の分校として併置されたんじゃ。ラッシャーはここではなく列車で2つ南の佐久の中学へ通っていたと思う。兄貴も保線作業員になって歌内駅近くの寮に入っていたな。ラッシャーは中学の途中までここに居て、父親の転勤で羽幌線のある天塩町へ行ってしまったよ。でも、後になってさ、ラッシャーがプロレスラーになってテレビに出ていた頃、ワシは夢中で応援したよ。こんな場所じゃが、ちゃんと全部のプロレスがテレビで映ったよ。馬場さんも、猪木さんの団体も。でもワシの中で一番のプロレスラーはラッシャーじゃよ(笑)」。

ご自宅へ戻ってしばらく筆談を続けながら、貴重な情報をいろいろ収集できた。偶然とはいえ、とてもいい方に出会えた。“いくらなんでも、さすがにこんな僻地まで来て取材した輩は誰もいないだろう。これ、スクープだな”と一人で勝手にそう思いつつ、ラッシャーの故郷をしっかり目に焼き付け、歌内を後にする(取れ高=満点)。
来週は幌延町、天塩町を経て、いよいよ稚内に至るロードを書こうと思う。