ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第767回】日本の天辺へ(4)

一番はこの時期行きたかったサロベツ原野。

ラッシャー木村の生家跡と歌内小学校を見学した後、私は天塩川(北海道遺産)に沿って北上し、幌延町に寄った。人口は約2千人、広大なサロベツ原野のある宗谷管内中西部に位置する町で、ジャガイモ農場や酪農が中心産業で、トナカイ牧場もある。1977年7月16日、国際プロレスが幌延町中学校の体育館で試合をしている。『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』第18戦だ。面白いのは、この日から『北海タイムス杯争奪トーナメント』という企画が道内限定で行われていること。初戦はアニマル浜口vs稲妻二郎に変身したブラック・シャドーだった(決勝は7月30日の札幌。キラー・トーア・カマタを破った木村が優勝)。この日のメインはグレート草津&剛竜馬vsカマタ&ビースト・コロンビアなのだが、恐らく本当のメインは記録上セミ、木村vsサモアン1号の“金網”だったのではないだろうか。ラッシャーの故郷の中川町歌内から車でも宗谷本線でも約40分の距離だから、応援に来た者も多かったはず(金網でのメインは間違いあるまい)。木村さんにとって“ほぼ地元”に凱旋できたことは意義があったと思う。シリーズ第17戦が13日の青森県弘前市だから、3日かけてすごい距離を移動してきたことになる。途中の市町村で試合をしてもいいのに、ひたすらここを目指したのである。

幌延町総合体育館の外観。

その2年後の79年3月に年金積立還元融資を受けて「幌延町総合体育館」が完成する。ここを最初に使ったのも、やはりパイオニア精神いっぱいの国際であった(地方の新しい体育館を見つける嗅覚はすごい)。それが80年5月6日の『ビッグ・チャレンジ・シリーズ』第18戦。メインは木村&草津vsジョー・ルダック&キューバン・アサシンだった。館内を見学させていただく。改装しているとはいえ、47年も経った体育館とは思えぬ新しさを感じた。それにしても北海道は昭和アリーナの宝庫である。ここまで寄ってきた富良野、滝川、沼田、士別、名寄、古丹別、遠別…そのすべてが現存する昭和の物件だ。内地(本州)では考えられないほどの確率で昭和の体育館が残っている。北海道民は物持ちがいいのか、何度も直しながら大事に使い続ける性格なのだろうか。また風雪に耐えるように最初から頑丈に造られているのでは?など、勝手な想像をいろいろしてしまう。

昭和物件なのに館内は奇麗。

さて、私は次に再び日本海側に出て、天塩町へ行く。人口は約2500人。北海道第2の長流・天塩川の河口にある町で、ヤマトシジミが名産(ここでシジミ潮ラーメンを食す)。最初に寄ったのはラッシャー木村の出身校・北海道天塩高校だ。前回、お伝えしたように木村さんの父は保線作業員で、転勤のため一家は生まれ故郷の歌内を離れて、この天塩町に引っ越してきていたのだ。この高校ではポール牧と同級生だったらしい。

ラッシャーの母校・北海道天塩高校。

その在学中に正雄少年は兄と一緒に巡業中の宮城野部屋の稽古を見学し、ちゃんこをご馳走になる。そこで親方にスカウトされて入門することに…。もともとはプロレスラー志望で、相撲は体力作りのためだったと言われる。58年に「木ノ村」の四股名で初土俵を踏み、64年に廃業し、日本プロレスに入団。66年に東京プロレスに移籍するも翌年に同団体は崩壊…。木村さんはプロレスを廃業して故郷に帰ってきた。その時、国際プロレスの吉原功社長が木村を説得するために北海道へ来ている。それは中川町ではなく、この天塩だったのではないかと思われる。吉原さんが遠路はるばるここに来なかったら、“ラッシャー木村”というプロレスラーは存在しなかったであろう。生前、木村さんとプロレスの話ではなく、北海道の話をゆっくりしたかった…それが心残りである。

手塩町ファミリースポーツセンターの外観。

高校の後、私は「天塩町ファミリースポーツセンター」へ行く。名前の通り可愛らしい、見るからに昭和の体育館だった(完成は74年)。そういえば道内には浦河町にも、礼文にも「ファミリースポーツセンター」の名称の体育館があった…。昭和には「スポーツは家族で…」みたいなほっこりした感覚が道民にあって、そのための施設を造りましょうということだったのだろうか…。やはり、ラッシャーの準地元ということもあってか、ここも国際が初使用している。天塩町は故郷の中川町からでも30㌔強の距離で、北海道民の感覚で言えば“近い”。78年7月12日、『ビッグ・サマー・シリーズ』第15戦。メインは木村&浜口vsアレックス・スミルノフ&ベルモ・サルバトーレだった。2400人発表…もしそれだけ入れば外まで客が溢れてしまうだろうほど、こぢんまりした体育館だった(当時の人口は6300人)。

サロベツ原野に咲くエゾカンゾウの群落と利尻山。

『道の駅てしお』で車中泊した私は翌日、広大なサロベツ原野をくまなく走りまわる。そして洋上の利尻富士を眺めながら、さらに北上して“宗谷サンセットロード”へ入る。ノシャップ岬の少し手前、富士見町4丁目にあるのが「稚内市総合体育館」だ。“富士見”とは、ここでは利尻山(1721m)の富士を指す…。さて、この総合体育館は大きくて新しそうに見える。昭和物件だが、81年の“体育の日”にオープンした体育館で、全日本が82年5月30日に初使用している。『エキサイト・シリーズ』第18戦…。メインは馬場&鶴田&天龍vsタイガー・ジェット・シン&上田馬之助&クルト・フォン・ヘス。でも、稚内の本命の「体育館」はここではない。

稚内市総合体育館の外観。

ノシャップ岬の『樺太食堂』で4950円の“ウニだけウニ丼”を食す。岬をぐるっと回って市街地に入った宝来4丁目にあるのが本命の「稚内市体育館」だ。しかし、“ある”ではなく、“あった”(過去形)…だったのだ。市民体育館は昨年9月30日に閉館し、10月に取り壊されて更地になっていたのだ(グスン…)。

稚内市体育館は平地になっていた…。

思い出したよ。週刊ゴングの晩年に近い2003年、WJプロレス札幌、旭川大会の中2日のオフ…。今は亡き岩本稔カメラマンを連れて稚内まで遊びに来た。その時にこの体育館の前をレンタカーで通った。そうか、昨年の旅でここまで来ていれば、まだあったのだ(無念…)。岩本カメラマンは宗谷岬やサロベツ原野へ行ったあのオフ旅で、プロレス取材以外のリアルな旅に目覚める。そして私の影響を受けて城巡りも始めた。だが、2023年に急死。最も気の合う心優しいカメラマンだった…(私はゴング時代の“有志”を集めて追悼の会を開いている)。さて、稚内の市役所へ行っていろいろ調べてもらう。「市体育館は66年12月11日に完成したんです」と言うから、確かにご高齢の施設であったわけだ。南極点一番乗りを争った“スコットvsアムンゼン”ではないが、最初にこの日本最北端の体育館に到達したのはどこの団体か…。そう、それはやっぱり国際プロレスであった。68年5月27日、『ワールド選抜シリーズ』第5戦。メインは豊登&草津&杉山vsビリー・ジョイス&ジョン・コックス&コーリン・ジョイソン、セミがアルバート・ウォールvs小林省三であった。

南稚内の大黒町2丁目広場はツルハになっていた。

日本プロレスは市体育館を使ったことがない。71年6月7日に一行は初めて稚内入りしたものの、会場は「大黒町2丁目広場」という野外であった。総合体育館の職員さんによれば、「なぜ市体育館でやらなかったかは知らないけど、昔はその広場でいろんなイベントをやったんですよ。歌謡ショーとかね。今はもう広場はないですけどね」。実際にそこへ行ってみたが、『ツルハドラッグ南稚内店』になっていた。ここで馬場&猪木&吉村vsフレッド・ブラッシー&ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスがメインとして行われた(ゴールデン・シリーズ第11戦)。セミはイワン・コロフvs大木。偽ロシア人のコロフがサハリン(樺太)に最も近い最北の町に上陸していたというのは面白い。さて、新日本vs全日本で最初に稚内へ到達したのはどっちか? それは新日本であった。日時は74年6月8日。大塚直樹氏によると、「私の知人の刀根靖さんのご協力でやった自主興行で、営業の斉藤洋が担当でした」とのこと。メインは猪木&木戸&柴田vsカール・フォン・ショッツ&イワン・プトスキー(リック・フェララ)&ガブリエル・カルデロン。セミが坂口vsラスプーチン。偽ナチスに、偽ポーランド人に、南蛮人、さらにはロシアの怪奇僧…。その夜、最北の町は怪しい人種で埋め尽くされた。

在りし日の稚内市体育館。

稚内の人口は約3万人弱。北海道のどこの市町村と同じく年々減少しているが、今回の旅で私が寄ってきた中では滝川市に次ぐ町だ。ピーク時の75年には約5.5万人が住んでいた。私が初めてバイクに乗って稚内に来たのは、その75年の8月22日のこと。51年後の今、自分のアルバムを改めて見て気づいたことなのだが、私が稚内に来た翌日の8月23日に全日本プロレスが初めて稚内へ来ていた!のだ。そしてここでテレビ中継をやっていたのである。その23日、私は利尻に渡っていた。オンエアは30日であった。最北到達は遅れたものの、この地から全国中継したというのは日テレの意地だったのかもしれない。メインは馬場&高千穂vsキング・イヤウケア&ブル・ラモス、セミが鶴田vsテッド・オーツ。それは『第2次サマー・アクション・シリーズ第2弾』第8戦のこと。ちなみにマスカラスは稚内まで来ていない。南は石垣島まで行っているけど、北は旭川止まりだった(私もプロレス取材の北限は旭川)。先に寄った稚内市総合体育館の年配の職員さんにお聞きすると、「HBCがTBS系列でこっちの1チャンネル、STVが日テレ系列で5チャンネル、HTVがテレ朝系列で6チャンネル、TVHがテレ東系で7チャンネル、UHBがフジテレビ系列で8チャンネル…だからプロレスはどの団体も観られましたよ」とのこと。放送時間帯は東京と違うが、昭和の北海道民のプロレスTV観戦の環境はかなり良好だったようだ。

稚内公園より市街地と利尻・礼文に渡る港を見下ろす。

最後に79年に全日本が稚内を再訪した時のエピソード。稚内の前の試合が10月8日の群馬県桐生市で、その次の試合がビヨーンと最北へ飛んで11日の稚内という、ありえへんスケジュールだったのだ。でも中2日のオフがある。そこで馬場さんはゴルフバッグ持参で稚内に先乗りして、日本最北の地でゴルフを楽しんだのである。でも、ただ単に最北だからではない。ここはスコットランドのような寒さと強風で高い樹木が生えない。つまり海岸線のリンクスコース…。馬場さんは全英オープンのような荒涼としたロケーションでのラウンドに憧れていたのだ。まあ、付き合わされた原軍治リングアナや京平ちゃんも大変だったみたいだけど…。そんなことをしているから翌日の旭川でブッチャー&レイ・キャンディに敗れてインター・タッグを失ってしまったのか…(3本勝負で馬場さんが1本も取られず負けたのはズルいよ)。ちなみに国際プロレスが最後に稚内に来た80年5月5日は、資金難だったためか市体育館は借りられず(?)、市内の「ショッピングセンター タイガー駐車場」で試合をしている。それって一体どこなの? でも雨が降って来たので、稚内での調査はここで打ち切り。私は翌朝、40年ぶりに愛しき利尻、そして麗しき礼文に渡ることになる。それは次週に…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅