
稚内、利尻・礼文へ……最北端への道程は長く遠い。北海道上陸初日の夜を滝川市で過ごした私は2日目、さらに北上する。この日、最初に寄ったのは深川市である。人口2万人で、米と蕎麦の生産地。1987年10月に立派な総合体育館が建ったが、それまでこの町に屋内体育施設はなかったようだ。石狩川の北岸、深川花園稲荷神社の裏手に1917年(大正6年)に造られた広場がある。翌年に深川町が誕生するので、恐らくここがさまざまな催事を行うための町の集会場所だったのだろう。

1969年8月25日に国際プロレスは市内のこの「花園公園」で興行を打っている。『サマー・ビッグ・シリーズ』第32戦。メインは豊登&小林&大磯vsオックス・ベーカー&ティト・コパ&ルター・レンジ。72年5月13日、国際は北海道だけで全10戦を行った『ワールド選抜シリーズ』の第5戦で再びここを使っている。メインは杉山&小林vsモンスター・ロシモフ&イワン・バイデン。2年後の8月19日には全日本がこの公園に来ている。『第2弾サマー・アクション・シリーズ』第9戦、メインは馬場&鶴田vsドリー・ファンク・ジュニア&ジョニー・ウェーバー。アンドレもゴーディエンコも、ドリーも初来日のスレーターも、今は人影すらないこの広場に来ていたのだ。さらに、ここから数百メートル西へ行った所に「緑町児童公園」がある。何もない殺風景な公園だ。

実は国際プロレスの“幻のシリーズ”と言われる80年『第2次ビッグ・サマー・シリーズ』はここからスタートしているのだ。一部マスコミに掲載された同シリーズの開幕は8月1日の岩手県西根町民体育館からとなっている。でも実際は7月25日の札幌での第1次サマー…最終戦の翌26日、ここで開幕していることが鶴見日記や高杉日記で判明した。高杉日記によれば、日程を書く際には「深川市緑町子供広場」と書いているが、当日には「深川市緑町野球場」と記している。今は何もないが、当時は非公式の野球場があったのかもしれない。マスコミへ渡される記録が一切なかったシリーズ。唯一わかるのは、日記に記された第1試合15分1本勝負で高杉が菅原に勝ったことだけである。それ以外の試合記録はない。ちなみに一行は市内の富士屋旅館に投宿しており、そこで接したニュースが「大宮の合宿所にハイヤーが突っ込んで全焼した」という悲報だった……。朝方だったが、この公園にも人がおらず、町を歩いている人影すらなかった。ちなみに明治から続いた旅館は、和風レストランとしてその名前を残している。

この後、『石狩沼田幌新ヒグマ事件』(1923年8月22日=祭り帰りの家族を襲い、4人が死亡、4人が重軽傷を負った)の加害羆の毛皮を見るために沼田町へ入った(それがこの日のメイン)。北海道の市町村に強い国際プロレスが、この沼田町で試合をしている。78年『ビッグ・サマー・シリーズ』第13戦(7月8日)の「沼田町民体育館」がそれ。メインは木村&寺西vsアレックス・スミルノフ&マスクド・アタッカー(ジョン・フォーリー)。ここは現場へ行って驚いた。「これは古い!」。

外見だけでなく、中に入ると段差だらけのエントランスなど、古さ満載の奇怪な建物だった。よく見ると六角形の体育館である。係の人に聞くと「武道館を模して造ったんですよ(笑)。71年にできた古い建物なので、建て替えの話も出ているんですが」とのこと。今まで全国でいろんな体育館を見てきたけど、ここは他にありそうでないマニア必見の昭和物件だと思う(ここは一度、見に来てほしいなあ)。

私はこの後、日本一の蕎麦どころ・幌加内を経て士別市へ下る。いよいよ道北だ。上川管内の塩狩峠以北が道北といわれるエリアである。士別市は人口1万7千人の農業、林業、羊などの畜産の町で、ボクシング世界ジュニアウェルター級王者“炎の男”輪島功一の地元(生まれは樺太の豊原市)である。最初にここへ来たのはやはり国際だ。71年7月15日の「士別市児童体育館」がそれ。メインは杉山&木村vsブラックジャック・ランザ&チーフ・ブラック・イーグル。いろんな場所で「児童体育館ってどこですか」と聞きまくると、「総合体育館の所にある児童会館のことだろうねえ」とご老人。それで「士別市総合体育館」の方に伺うと、この体育館の裏手に張り付くようにあるのが児童体育館のようだった。市役所で調べてもらうと、正式名称は「青少年会館」で71年竣工とのことなので、国際の興行はこけら落としのようなイベントだったのではないか。

「士別市総合体育館」は75年8月に竣工した立派な施設だ。最初にここを使ったのは新日本。76年『ゴールデン・ファイト・シリーズ』第10戦(6月8日)。猪木はアリ戦に備えて3日から欠場。メインは坂口&ストロング小林vsハリウッド・ブロンドス、セミが星野vsジェフ・ポーツだった。営業部長だった大塚直樹氏によると、ここをプロモートしたのは滝川の『ワールド企画』の堀裕宣さんだったようだ。

私はこの後、国道40号線を23km北上して名寄市へ行く。天塩川と名寄川が合流する名寄市は上川管内北部の中心都市で、もち米の名産地。最高気温が36.4度で最低気温がマイナス35.7度という寒暖差の厳しい盆地にある。現在の人口は2万4千人を切っているが、1970年には4万3千人もいた。最初に訪ねたのは「名寄市営球場」だ。開設は67年7月1日とのこと。

ここも国際が最初に唾をつけている。69年8月24日、『ビッグ・サマー・シリーズ』第31戦。メインでは杉山&木村vsニキタ・マルコビッチ&スタン・ザ・ムースのTWWA世界タッグ選手権が行われている。これが日本で最も北で行われた“世界”の付く選手権試合か。また、この名寄市営球場で忘れてならないのは新日本の72年7月28日大会であろう。新日本は日プロの妨害なども考慮して、旗揚げ4シリーズ目(ニュー・サマー・シリーズ)にして初めて北海道へ渡った。初日(7月27日)の旭川市体育館を担当したのが元リキレストラン2代目料理長の高梨正信氏で、翌日の名寄が大塚直樹リングアナだった。大塚氏が単独で興行を担当したのは、この名寄が初めてのこと。大塚氏は見も知らぬ名寄に先乗りし、飛び込みで営業をしたという。「試合当日に地元のパチンコ店の開店と同時に猪木さんに行ってもらって、番台みたいな所でパチンコ玉を売るのを手伝ってもらったんです」と大塚氏は涙ぐましいエピソードを語ってくれた。「お客はそこそこ入ったんですよ。でもガイジンが場外乱闘でリングサイドの女性にけがをさせてしまって……それが例のパチンコ店のお嬢さんでして、試合後まで大変でしたよ」。当時の発表は3200人。メインは猪木&豊登vsレオン・バクスター&ディック・ダンだった。ちなみに第1試合ではリトル浜田がデビュー3戦目の木原伸一を破っている。

次に「名寄市スポーツセンター」へ行ってみる。体育館の横には地元出身の元大関・名寄岩(立浪)の銅像が建っていた。75年4月1日に完成した体育館だが、床面積も広く二階席もある立派な施設だ。全日本が73年8月22日に「名寄市南小学校跡地」(現在は宅地化で消滅)で当地興行を打っている(メインは何と馬場vsボボ・ブラジルのシングル!)。つまり75年まで屋内の体育施設がなかったということである。

最初にこのスポーツセンターで試合をしたのは75年11月15日の国際プロレス。開館から半年後に使用している。メインは木村&寺西vsピエール・マーチン&ゴードン・アイビー。ラッシャーの生まれた中川町はここから北に72km、車で1時間20分の距離である。この日、新聞では「名寄市体育館」と記されているが、「スポーツセンター」で間違いない。国際は翌年11月3日にも名寄に来ている。メインはギル・ヘイズvs田中忠治の金網デスマッチだった。全日本は78年10月23日、『ジャイアント・シリーズ』第16戦。メインは馬場&鶴田&デストロイヤーvsボボ・ブラジル&アブドーラ・ザ・ブッチャー&ビッグ・レッドの豪華6人タッグ。新日本は81年7月18日に初使用している。プロモーターは『ワールド企画』。メインは猪木&坂口vsブッチャー&バッドニュース・アレン。セミが藤波vsスタンリー・レーン。その下でマスクド・スーパースターvs長州があった。黒い魔神と黒い呪術師を2度ずつ……名寄のファンは観たことになる。このスポーツセンターで事務局長をされている松澤大介氏にお声掛けいただき、事務所でしばらくプロレス談義に花を咲かせる。

松澤氏は大のプロレスファンで、『ゴング』の愛読者。学生時代のリングネームは「リッキー・ダイナマイト」……長州力とキッドをミックスした名だという。私が手持ちの資料をお見せすると、「この下川町下川鉱業体育館(77年7月18日=国際プロレス)って、超レアですね」と驚く。下川町は名寄から東へ18km。スキージャンプの“レジェンド”葛西紀明など名ジャンパーたちを生んだ町だ。下川鉱山は1933年に開山し、銅、硫化鉄、亜鉛などを産出。最盛期は74年で、町の人口は一時1万5千人に達した(現在は約2700人)。三菱金属の資本で掘っていた鉱山で、景気が良かった時期に町おこしと鉱山労働者の厚生施設として体育館を造ったのだろう。83年に閉山……それから43年、鉱業体育館がどうなったのか。調べに行きたかったけど、もう夕方で、この日泊まる羽幌と下川は逆方向だったので、泣く泣く退散することにした。松澤さん、時間がある時に下川へ行って調査してみてください。松澤事務局長とはいい出会いでした。また、いつの日か、リッキー・ダイナマイトにお会いしましょう。