ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第622回】鉄怪人とベルト

 7日、アイアン・シーク(コシロ・バジリ)が亡くなった。81歳だった。ストロングスタイルプロレスを観に行って出くわしたキム・ドクが「アイアン・シーク死んじゃったなあ」と、何か喋りたそうにしたので耳を傾ける。海外レスラーの訃報に、この人の毒舌は欠かせない。

「あいつは俺が1973年にオクラホマに居た時に来たよ。まだコシロ・バジリだったかな。2年前にAUUのアマレス選手権に優勝したのを自慢していた。“そのメダルでメシを食わせてもらえるほど甘くないぞ”って言ってやった。俺が75年にAWAへ行ってガニアのおっさんにキャンプで若い奴らを教えやってくれと言われた時、コシロも居たよ。キャンプって言ったって、事務所のあるタワービルの地下駐車場だよ。コシロがコーチを?そんなことしてないよ、それ嘘だよ。そこにはフレアーとかスティムボートとかも生徒でいた。俺が先生で、コシロに日プロ流の受け身を教えていたんだから。天井低いからボディスラムも出来ない。だからほとんど受け身だけ。そこにもバックランドも少しの間来ていたよ。そう、あいつとバックランドは少しだけど一緒にキャンプに居た時期がある。俺がヒールで、ベビーのコシロと何度も試合したけど俺は一度も負けたことはない。プロレスはしょっぱかったよ。プロではグリーンボーイだよ。フロリダでゴッチさんが息子みたいに可愛がっていた(シューターの)ジョー・マレンコとスパーリングをやらせたらコシロが勝ったらしい。あのゴッチのおっさんが“アイツはシルクみたいに滑らかな動きでジョーに完勝したんだ。アマレスやらせたら本当に強い”って感心していたよ。77年に俺がカロライナに居た時にあいつがまた来たよ。もうアイアン・シークになっていた。その後、俺が80年頭頃にニューヨークに居た時に、また後からアイツが来てバックランドからベルトを獲った。それですぐホーガンに獲られたんだよな。その後、麻薬(コカイン)の抜き打ち検査があって、あいつはプラス(陽性反応)が出たのに“プラスってセーフでしょ”って馬鹿なことをビンス(ジュニア)に言って、即クビになったよ。それからあのおっさんには会ってないな」。

初来日の公開練習でジャーマン風の投げを披露。

コシロ・バジリはゴッチの推薦で74年の『第1回ワールドリーグ戦』の初来日。開幕戦のエキシビションで永源にジャーマンを放つもフォールは取れずドロー。線が細く筋肉質のアマ体型で、公式戦では若手から3点挙げたに留まる。76年の全日本初登場ではヘーシンクの咬ませ犬となり、鶴田、デストロイヤー、高千穂らの標的となり、マードックやNWA王者テリーの影に隠れていた地味男だった。だが馬場がシリーズ後に若手のコーチを頼んで暫く日本に居残った。80年3月に新日本に来た時が一番いい扱いだったように思う。猪木と津山のテレビマッチでシングルやってスープレックス連発して、最後はグランド卍でやられたけど、とてもいい味出していた。ここが日本でのハイライトだろう。

私はアイアン・シークの訃報を聞いたとき、82年の『第5回MSGシリーズ』の開幕当日、京王プラザホテルの廊下で暫く立ち話をしたのを思い出した。コロソ・コロセッティと私は一緒だったので、彼が間に入ってわかりやすく解説してくれた。「デトロイトにいるザ・シーク、あれは偽者のアラビア人。俺はイラク生まれだからペルシャなんだけど、今はアラビア人に扮している。そういう違いはキミたち日本人やアルゼンチン人にわからんだろう。で、どっちのシークが正しいと思う?」。何かピーナッツみたいなものを口に頬張って、ポロポロ廊下にこぼしながら国籍や人種のことをずっと喋っていた。とても気さくなオジサンで凶悪さはゼロ。あのザ・シークのような鋭い眼光はなく、人のいいおっさんにしか見えなかった。私は“あのザ・シークあってのアンアン・シークじゃないの!”と思ったけど、ゴクンと呑みこむ。「おい、ビンス(シニア)がこのホテルに来ているんだろ。またニューヨークで使ってもらえるように頼もうと思っているんだ。日本に来られたことはラッキーだったよ。ガハハハッ」。ただし、ピーナッツおじさんの公式戦は1勝12敗の最下位タイ…あまりに酷い(2引き分けのみで、あと全敗で同点最下位は長州。ここにも咬ませ犬がいた…)。

 その3年前…79年2月に彼はハッサン・アラブの名でボブ・バックランドの持つWWF王座へ挑戦しているが、その後はカロライナ、フロリダ、テネシー、ジョージアなどを転々としていた。日本でのビンスへの懇願が実を結ぶまでには1年半かかった。ピーナッツおじさんは使い慣れたアイアン・シークの名でWWFと再契約。そして83年12月26日のMSGでバックランドを破ってWWF王座を奪う。ハルク・ホーガンへの、たった1ヵ月のワンポイントリリーフだったとはいえ、彼の長いレスリング人生において、それはまさしくハイライトだった。

83年12月、バックランドから黄緑色ベルト奪取。

 その時に締めたベルトが上のもの。ボクシングのWBCのような黄緑ベルトに金色の円盤プレート。そこにはカフラルなダイヤガラスが16個散りばめられていた。上部に「ワールド・レスリング・フェデレーション」と横文字で書かれ、下には「ヘビー・ウエイト・チャンピオン」とある。モネワイデ図法の世界地図の前にはベルトを掲げるチャンピオン像が浮き彫りに…(この部分は市販レプリカではまったく再現できていない)。さらに四角いサイドプレートが左右4つずつ配置されており、そこには歴代のチャンピオン名と奪取の年月日、対戦相手が掘られている。

83年1月のMSG定期戦から新WWFベルトに。

バディ・ロジャースから数えるとブルーノ、イワン・コロフ、ペドロ・モラレス、スタン・スタジャック、ブルーノ、ビリー・グラハム、バックランドで8枚(この頃まだ猪木の徳島での王座奪取は認定されていなかった)。そこにアイアン・シークが加わり、ロジャースが弾かれたのだろうか。このベルト(作者不明)が初めて使われたのは83年1月22日、MSGのバックランドvsビッグジョン・スタッドから。そしてこれはアイアン・シークを経て84年1月23日のMSGでホーガンの腰に移る。しかし、ホーガンが気に入らなかったのか、新当主のマクマホン・ジュニアが気に入らなかったのか、すぐに黒革の流線形のレジー・パークス製にチェンジされてしまう。これにもサイドプレートには歴代王者の記録があるが、凹に彫ったものではなく、凸型の文字なので書き足しは出来ない…つまりホーガン一代ベルトという感じだ。その辺からWWFベルト自体がつなまらくなっていくので、タイムトンネルをシニア時代に戻ることにしよう。

84年奪取後に超人はレジー・パークス製にチェンジ。

 時計の針を徳島で猪木が奪取した79年11月30日に合わせてほしい。猪木が締めたベルトが藤色だったことはもうご存知の通り。だが来日直前のデトロイト遠征でもバックランドは青ベルトを使っていた。まるで日本で猪木にベルトを渡すために特別に藤色をしつらえた…とも言えるタイミングでのベルトチェンジだった。12月6日の蔵前で王座預かりの裁定に…。12月17日のMSG定期戦で新間氏がその藤色のベルトを手に渋い顔でバックランドvsボビー・ダンカンの王座決定戦のリングに上がる。そうでもしないと、新日本の立場が無かったのであろう。最初から年末に猪木のMSG行きのスケジュールが決まっていた。猪木が蔵前でバックランド相手に防衛をして、MSGで落とせば良かったのだが…。それがやれればインパクトはあったし、もっと早く猪木への王座移動は“公認”されていたはずだ。なぜ、この決定戦で猪木vsバックランドの決定戦をやれなかったのか…。それは日本とニューヨーク(ロスも同様)のストーリーはまったく別物だからである。いくらWWFの会長職であろうとNWAの副会長職(芳の里)にあろうと、MSGやロスのメインのマッチメイクにまでは口を挟めないのだと改めて知らされた(猪木がWWF王者として認められたのは90年代半ばだったと思う)。その日、MSGの(日本枠)で猪木のNWF王座に挑戦したのがグレート・ハッサン・アラブ=アイアン・シークだったというのも妙な縁だ。それはMSGでビンスが猪木の前に差し出した当たり障りのない生贄であった。そのイランの怪人がそれから2年後にバックランドをリアルに攻略してWWFのベルトを奪うことになろうとは、この時点で猪木どころかビンスだって想像していなかっただろう。

新間氏が断腸の思いで藤色ベルトを持って…。
MSGで猪木はアイアン・シークとNWF戦。

 バックランドが藤色のベルトをしていたのは僅か数ヵ月。以後、再び青ベルトが使用されている。新日本への8度も来日も、80年9月22日MSG定期戦でのNWA世界王者レイスとのダブルタイトルマッチも、82年7月4日のアトランタでのフレアーとのダブルタイトルマッチも、すべて青ベルトだった。遡れば78年1月のマイアミでのビリー・グラハムvsレイスもそうだし、同年2月23日のジャクソンビルでのバックランドvsレイスもそう。さらには79年3月25日のトロントでのAWA世界王者ニック・ボックインクルとのダブル選手権など重要な試合はすべて青ベルトだった。名だたる歴戦を経験した青ベルトと、短命ながら猪木の腰に一度巻かれた藤色ベルト…あなたならばどっちのマルコビッチベルトに価値があると思いますか?

ダブルタイトルマッチはいつも青ベルトだった。

 よく観察すると青ベルトはもちろん、79年3月1日にWWFと改名されたにも関わらず79年11月から使用の藤色ベルトにも「WWWF」の刻印が残っていた。団体名変更から半年以上経っているのにまだWWWFとは…藤色ベルトはやはり慌てて同じ鋳型で造られた感が強い。その青も藤色ベルトも、どちらも現在は行方不明。藤色ベルトなんか新日本か、猪木さんにこっそり贈呈されても良さそうに思うのだが…。ベルトがWWWFからWWFと名称が改められるのは81年1月からの黄緑円盤ベルトからである。78年から82年夏まで12度もチャンピオンとして新日本に来ていたバックランドなのに83年には1度も来日しなかった(IWGPイヤーにWWF王者は不要だった?)。そのため、残念ながらその黄緑ベルトは日本に上陸していない。私個人はこのベルトがデザイン的にもオリジナル性も高く、明らかに他団体・他地区のものと区別がつくので好きだ。約1年ちょいの使用期間だったが、ビンス・シニアからジュニアへ…時代の移り変わりを目撃した貴重なベルトだったと思う。そこに一枚、明智光秀のようにアイアン・シークが絡んでいるのがいいじゃないか。あのピーナッツおじさんのご冥福を改めてお祈りしたい。

 WWF元会長、WWE殿堂入りの新間寿氏とのトークイベントは11日から『闘道館』で発売開始されました。良い席はお早めに…。

チケット発売開始されたよー。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅