ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第623回】アナクラ氏の国際愛

 先週のコラムのWWF(WWWF)ベルト話。いろいろ間違いがあったので少し訂正しておく。バックランドがビリー・グラハムから奪った時の青ベルトとフレアーとダブルタイトルマッチをやった時の青(紺色)は別物。また藤色ベルトは、バックランドは80年4月のマイアミでの猪木戦、直後の『第5回MSGシリーズ』後半戦にも持って来てローデス、ハンセンと防衛していた。黄緑色ベルトは84年1月『新春黄金シリーズ』に特参したホーガンが持参しているが、防衛戦は行われなかった。83年1月のバックランド初使用の黄緑色ベルトと、アイアン・シーク→ホーガンの黄緑ベルトは別物…つまり2本あったことになる。おいおい、いい加減にしろよ。WWFのニキタ・マルコビッチ製は5本? 黄緑が2本、ビンスはいったい何本作ったら気が済むんだ。この同時期、NWAとAWAは2本ずつだよ。私のWWFへのリスペクトの無さは、こういう所に表れているのだろう。ブルーノ、グラハムあたりで、私のWWF愛は一旦終わっている(新間氏に怒られそう…)。全日本に来日したバックランドの小僧っぽい頼りない試合ぶりを観ていたので、そのイメージが残ったままだったからなのかもしれない。ちなみにホーガン来日直前、84年1月23日のMSGでのアイアン・シークから王座を奪った試合よりWWFは再び「ワールド」と謳うようになる。71年にNWA傘下に入って「世界」を外されて以来の独立宣言だった。そのために黄緑ベルトを止めて、「ワールド」の文字を入れた新ベルト(レジー・パークス製)を発注したなのだろう。これとて文字が赤凹と黒凸の2種類ある…。WWFはスペアを必ず作っておくということなのか。それにしてもコロコロ変わって唯一無二がなく、視覚で訴えるシンボリック性がないなあと思った…。

ホーガンの黄緑、実は2本目。

 ベルト話はこれくらいにしておく。28日発売の『GスピリッツVol.68』は引退した武藤&グレート・ムタと国際プロレスのダブル特集だ。武藤ものは年末にやる予定だったけど、猪木さんが急死したので、今日までずれ込んだ。でもなぜ、また国際を…というと、23日(金)に『国際プロレス外伝』に発売されるから、その刊行記念の連動企画というわけ。『国際プロレス外伝』は『実録・国際プロレス』『東京12チャンネル時代の国際プロレス』に続く第3団体盛衰録の第3弾(私のやったインタビューは7本掲載)。旗揚げ前夜からパイオニア戦志までを収録した優れ本。是非お買い求め願いたい。「国際は滅べどもスピリッツは消えず…」かな。

これは23日(金)発売だよ。

それでGスピの本誌…武藤ちゃんの第1特集は小佐野君にお任せして、私は国際の第2特集に集中した。1本が『高杉正彦×アポロ菅原 俺たちのパイオニア魂』なる同窓座談会…“知らなかった!”、“そうだったの?”という話が次々に飛び出すので、ご期待ください。そしてもう1本の国際ものが元週刊プロレスの“ジチョー”こと宍倉清則氏のインタビュー。彼がかつて国際プロレスのファンクラブの編集長=会長だったということはあまり知られてない。宍倉さんはトークショーはもちろん、マスコミの取材等を一切断っている(同級生だけど、彼が半年早く生まれているので、昔からさん付けにしている)。まあ、私にとって彼は“ジチョー”でも、“シッシー”でもなく、「アナクラ氏」なんだけどね。70年代後半、ゴングのアルバイト時代、彼は竹内さんやウォーリー(山口くん)、そして私からそう呼ばれていた。「宍」という文字が「穴」に似ていたからだ。恐らくウォーリーが「宍」(しし)を読めなかったから、そう呼んだのが始まりかと…。年上の上司・竹内さんでさえ「氏」を付けていた。逆に私はアナクラ氏から「カイチョー」と呼ばれていた。ミル・マスカラス・ファンクラブ『エル・アミーゴ』の会長をしていたからで、竹さんとウォーリーが私をそう呼んでいたからだ。ゴング編集部で平社員だった頃も、主任や編集次長、そして編集長に昇進しよと、竹さんは「カイチョー」で、ウォーリーはずっと「カイチョーさん」のままだった。カイチョー歴は「ジチョー」より長く古い…。

78~79年頃。宍倉氏宅にて。左からアナクラ氏、私、ジミー、ウォーリー。

そんな呼び名はどうでもいい。今回の宍倉さんへのオファー…まだ私が何も言ってない段階で「トークショーならいくら頼んでも無理!人前には絶対出ないから」といきなりの先制パンチが返ってきた。「いやいや、そうじゃないんだ」と切り返し、約2時間掛けて口説き落とした。こっちの口説文句は「国際プロレス」と「ゴング」、「竹内宏介」だった。正直、私には自信があった。この3つのワードを浴びせればあの偏屈な男でもダウンさせられると。そして「今の自分の写真を撮って載せるのだけはNGね」という条件付きでついに承諾を取った。よーし、これならTKOに近いぞ。

これが28日(水)発売の68号。

宍倉さんに最後に会ったのは茨城清志氏をゲストに招いてトークショーをした2015年4月…。あのイベントをやった夜中にウォーリーと4人で歌舞伎町の『ルノアール』で会った。それ以来か…。今回は京王プラザホテルのカフェで再会。そういえば、この人バックランドが好きだったんだよなあ。“俺は好きじゃなかったよ”とか言って、機嫌を壊さないようにしないと…。久しぶりの宍倉さんは思ったより元気そうに見えた。例によってぶっきらぼうな人間なので挨拶もそこそこに…。「俺は活舌が悪いんで聞きづらいと思う…」と言うが、それはややガラガラ声なだけ。乗ってくれば熱のこもった声を発する。インタビューは、カフェをハシゴしながら計8時間要した。国際・ゴング・竹内の3つのワードを前にした宍倉氏は昔の「アナクラ氏」のままだった。人一倍警戒心が強いだけで、心さえ許せば話好きなのは知っていた。それにしても熱中すると話が終わらない…。8時間はGスピでやった誰のインタビューよりも長い、過去最長記録である。それでもゴールを羅臼とするならば、その3分の1くらいまでしか話が進まなかった。そのためこのインタビュー企画は最低でも3回の連載にすることにした。まあ、その1回目を読んでいただきたい。「私にしか聞けない話」、「清水くんだから答える話」がたくさん出てくるので必読。今回、私の質問は丁寧な言葉遣いに直してあるけど、宍倉氏の言葉・話し方はほぼレコーダーで収録した肉声のままで書いてある。宍倉氏に会ったことのない読者の方のために、彼がどんな口調で喋るのかをわかってもらえるように…である。オファーした当初はあれほど警戒していたのに、収録中も収録後にも「今回の話は超貴重だよ」と連発…本人自身が笑顔で太鼓判を押した!

そう、アナクラ氏ならではの熱い“国際プロレスLOVE”を乞うご期待。あと1週間待ってくれ。

最後の新間寿を聞こう!

さあ、24日土曜日は新間さんと少年探偵団の1対3リベンジマッチ。新間さんに昨日お電話したら「ああ、元気だよ。土曜日は、来てくれたみんなに楽しんもらえる会にしような。俺もお前たちと話せるのを楽しみにしているよ」と張りのある声が返って来た(宍倉さんより元気そう)。「88年間、喋り続けた俺にとってこれが最後のトークショーだと思って出させてもらうよ」と意味深な一言も…。当日は今や門外不出となったWWE殿堂入りの記念トロフィーを特別に持参してくれるとのこと。その他、貴重映像や新間家秘蔵の未公開画像もスタンバイしているし、新間さんから来場者へ3種類の各10セットの猪木vsアリ戦関連等の記念品をプレゼントしてくれるとのこと。奮ってご参加ください。お待ちしています。

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