ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第617回】私の流儀

 日曜日は小林邦昭さんと高杉正彦さんとのトークショー…大雨の中にも関わらず、なかなかの盛況で、感謝しております。高杉さんは過去に2度ゲストに来ていて、邦昭さんは初登場。それなので邦昭さんを中心にメキシコ修行時代の2年3ヵ月を時系列で検証しました。サトル・サヤマが78年6月~80年9月まで途中フロリダへ行っていた期間を引くと約2年間のメヒコ修行。邦昭さんはビザの書き換えを兼ねてロスへ2ヵ月間行っていたのを差し引いてもメキシコ滞在期間はかなり長い。現地に居ついたグラン浜田を除けば、日本人最長かも…。

打ち合わせなしでいきなり。嬉しかった。

小林邦昭がメキシコ入りしたのは、1980年6月。到着して半月後にサトル・サヤマがフロリダのゴッチ道場からメキシコに戻って来た(2年に一度ビザ書き換えのために出国が必要)。3月にNWA世界ミドル級王座を転落したサトル・サヤマはEMLLを離脱してフロリダに飛び、この時にUWAへ移籍して浜田&小林と合流。日本人トリオを結成している。よーく考えてみれば、メキシコマットにおいて、それまでタッグはあっても、日本人トリオは無かった。もしあったとすれば56年の木村政彦&清見川&渡辺貞三まで遡らなければならない。フランシスコ・フローレス代表は新日本のトリオを結成させて「メヒコ(ルード)・コントラ・ハポネス」をやりたかったのだ。でもUWAで3ヵ月稼いだサヤマはイギリスへ行ってしまう。

佐山&小林&浜田の新日本トリオ。

「近未来の虎」が去った後、そこから「近未来の虎猟師」クニアキ・コバヤシの快進撃が始まる。私はリング・フヒナミ(藤波辰巳)、リッキー・チョウシュウ(長州力)よりも、クニアキ・コバヤシの方がメキシコマットでの評価は上である。それがどんな快進撃だったのか、小林邦昭という選手がメキシコでいかに偉大な足跡を残してきたのかは、闘道館に来てくれた人たちだけにしっかりすりこんでおいた。現地での邦昭への評価の高さはご来場のみなさんに納得してもらえたと思う。

浜田&木戸&ヒロ斎藤とのカルテット。

1981年10月2日、金曜日のアレナ・メヒコ…私は昼過ぎにアレナ・メヒコの事務所へ行った。今でこそ刑務所みたいに超厳重な警戒がされている事務所だけど、あの頃は鉄格子のドアをどんどん顔パスでクリアして社長室まで簡単に行けた。暗がりの社長秘書室に一人佇んで待たされている人影…おおっ元国際プロレスの高杉選手ではないか(まさかこんな所で!お互いにびっくり)。聞けば前日にロス経由でメキシコ来たばかりだという。英語の通じないこの国で超不安になっていた彼にとって、突然現れた私は救世主だったようだ。その後、サルバドル・ルテロⅢ世(ロメリ)が部屋に来たので、もろもろ事情を説明する。「今晩、8時30分が試合開始時間。キミのカードが今日のここで組まれているので、7時頃には会場入りしなさい」とロメリ氏。渡された本日のプログラムを見ると、セミで「タカスギ&ラヨ・デ・ハリスコ・ジュニア&カチョーロ・メンドーサvsエル・サタニコ&アドラブレ・ルビ&エスペクトロ・ジュニア」と書かれていた。確かそのカードの下(セミ前)がグラン浜田&小林邦昭vsNWA世界ミドル級王者リンゴ・メンドーサ&NWA世界ライトヘビー級王者トニー・サラサールだったと思う。この頃、EMLLアレナ・メヒコの金曜日定期戦にはUWAの選手が来て交流戦(あるいはUWAの提供試合)が1試合だけ組まれていた。その日、邦昭さんがいた!それは高杉さんにとってさらなる救世主となる。

私が撮影した高杉メヒコ初陣のチーム。

「高杉日記」のその日の行動を読むと、「5時 フクメン屋」とある。私がラヌルフォ・ロペスの店に行く予定だったのに高杉さんも同行したからだろう。そして再び会場のアレナ・メヒコに戻る。駐車場から選手専用の入口へ向かうと、そこで邦昭さんとバッタリ出会う。「おお、どうしたの?」(邦昭)という感じでの初対面(互いに顔は知っていても今まで挨拶を交わしたことはなかった)。「昨日、こっちに来て、今日からこっちの団体で試合なんですよ」。「おお、そうなんだあ」。邦昭さんは高杉さんがメヒコに来るのも、今日のカードに入っているのも知らなかったようだ。控室の中では「何処に泊まっているの。ホテルビエラ?そんなところすぐに引き払って、ウチに来ればいいよ」となったようだ。試合後にVIPS(ファミレス)で、みんなで遅い夕飯を食べる(浜やんはいなかったなあ…)。そしてその日のうちに高杉さんは邦昭さんの住む高級アパート「テクパン」の17階に引っ越しした。その日から約7ヵ月の同居生活…これを端に42年間に及ぶ友情ドラマ始まったというわけだ。その間、テクパンにはヒロ斎藤、ジョージ高野、長州力らが来て住み込むことになるわけだが、あの日から今日に至るまで深い親交が続いているのは小林-高杉ラインなのである。邦昭さんが次にEMLL主催のアレナ・メヒコ大会にマッチメイクされるのは翌82年4月なので、もしこの10月2日大会で出会わなければ互いに別々の団体ですれ違いのまま半年が経過し、今日の友情は生まれなかったかもしれない。人と人の出会いは偶然…改めて不思議なものを感じる。いや、もし単身メキシコ入りした高杉を安心させるために、UWAから浜田&小林をブッキングしたとするなら、EMLLのマッチメーカーの手腕は見事というしかない(そういう配慮は十分あり得るね)。

邦昭さんにはUWA世界を獲ってほしかった。

 今回のトークショーでは「ウルトラセブン替え玉事件」の全真相も初公開した。今だから言うけど、あのシナリオを書き、キャスティングしたのはゴング入社2年目の私だった。それを馬場さんが気に入って採用してくれたのだ。あれをやったお陰で、暫くの間、ウルトラセブンの正体は高杉正彦とバレなかった。後楽園ホールの控室通路を歩いてトイレに行くセブンを見たマスコミたちが「あれ、誰だろうな?」と首を傾げていたのを見て、やったあ!と小躍りしたものだ(まあ、すぐバレけどね…)。ただセブンの正体はバレでも、替え玉の正体は謎のまま、長い月日が経過した。近年「自分があの大宮スケートセンターでの替え玉の正体だ‼」と名乗って試合をして、亡くなってしまった選手(ワイルドセブン)もいた。「替え玉の偽者」が出るほど、あの大宮事件は40年近く勝手に一人歩きしていたことになる。それには私もびっくりだった。

このウルトラセブンは誰…?

あの日、大宮でセブンのマスクを被ったホンモノは私の紹介でメキシコへ行ったアレナ・メヒコの練習生。彼もまた邦昭さんのアパートに転がり込んでいたのである。今回、41年間、一度も明かさなかった「替え玉セブン」の真の正体と素顔写真をイベント内で公開した。それは高杉さんを含むごく一部関係者のみが知るシークレットであった。日本人マスクマンを正体不明にしておく事って難しい。メキシコとはマスクマン事情・環境がまったく違うからだ。故に日本ではマスクマンの素顔への興味は薄く、メキシコのような世紀のマスカラ・コントラ・マスカラは成立しない。そういう意味では41年間謎に包まれていた替え玉セブンの正体は別の意味で引きがあったようだ。最後にハワイで消息を絶った替え玉セブン…その最新追跡調査の途中報告もした。それらも日曜に闘道館に来てくれた人たちだけの心に留めてほしいと思ってのカミングアウトでした…。つまり私のトークショーに来ていただければ、誰も知らなかった謎、新事実を必ず持ち帰ってもらえる…そういう自負があります。「ドクトルのイベントへ行けば、ネタが何であろうと中身に間違いなし」と思っていただければ嬉しい。それだけ手間を掛けて作り込んでいますので…。

さて、それで次回(7月9日=日曜日)のトークショーで解き明かすのは30年前の謎…新崎人生誕生の秘密である。これも会場で来てくれた方だけに、「ああ、そうだったんだあ…」というシークレットな部分をいろいろお教えしたいと思います。「迷わず来いよ、来ればわかるさ」…これが私の「プロフェッショナル 仕事の流儀」です。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅