ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第616回】嗚呼、懐かしの闘牛場(3)

コロナのために3年延期されていたMLBの公式戦が初めてメキシコシティで行われた(サンディエゴ・パドレスvsサンフランシスコ・ジャイアンツ)。80年代からの英雄フェルナンド・バレンズエラ投手が所属していたこともあってメキシコでのパドレス人気は高い。会場はLMB(リーガ・メヒカーナ・デ・ヘイスボル=メキシカンリーグ)ディアブロス・ロホス・デル・メヒコのホームグラウンドであるエスタディオ・アルフレッド・アルプ・エルトゥ(収容20576人)。ここは2019年に出来たばかりの新球場(こけら落としもパドレスがエキシビションをしている)。だが、空気が薄いからボールが飛ぶのでホームラン連発。ダルビッシュはイニング間に酸素ボンベで吸引しながら力投した。WBC効果もあってメキシコも野球熱が上昇って感じか。今度、メキシカンリーグのゲームを観に行きたいなあ(ディアブロスのグッズがほしい…)。

先々週、先週に引き続き、闘牛場プロレスについて書きたい。と言っても、かく言う私、恥ずかしながら闘牛というものを一度も生で観たことがない。最初にメキシコへ行った1979年には市内シウダ・デ・ロス・デポルテス地区にある、プラサ・デ・トロス・モヌメンタル・メヒコ(以下、プラサ・メヒコと略す。闘牛時は4万2000人、プロレス時5万人収容)で闘牛の興行をやっていた。その後もずっと開催されていたようだ。基本、闘牛シーズンは11月から1月の約12回開催(シーズンオフにも開催があったようだが詳細は不明)。それなのになぜ観に行かないの?と言われると、開催日が日曜日なのでルチャの興行…特にエル・トレオのプロレスと重なるからだ。UWAの総本山だったエル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスも闘牛場(プラサ・デ・トロス)じゃないのかと言われれば、確かにそうだが、元闘牛場といったほうがいいかもしれない。我々のよく知るトレオは2代目で、初代トレオは1894年に別の場所にあった。2代目建設に至って交通の便の良いナウカルパン地区に移り、1947年11月に闘牛の初興行が行われている。そこからは1968年まで途切れることなく闘牛興行は続けられていたようだ。66年頃からボクシングのビッグショーが組まれ、ビセンテ・サルディバルvs関光徳の2連戦もここで開催され、“KOキング”ルーベン・オリバレスもトレオで計7度も試合をしている。68年から鉄骨ドームを組んで全天候型にしようとするも資金不足で頓挫。それ以降、闘牛開催はプラサ・メヒコにメイン大会を奪われてしまったようだ。

鉄骨ドーム時代のエル・トレオ闘牛場。

トレオでのルチャは『ルチャ・リブレ』誌のバレンテ・ペレスの独立プロの大会が1973年にあったが、UWAの初興行は77年2月6日で、メインはサント&ウラカン・ラミレス&グラン浜田vsドレル・ディクソン&セサール・バレンティーノ&スニー・ワー・クラウドだった。それが毎週日曜日の定期戦になったのは77年10月から。ずっと休止していたトレオでの闘牛はUWAが撤退した94年に復活するが96年シーズンを最後に中止された。その頃にはやっと屋根が出来上がり、全天候ドームになっていたのに…。プラサ・メヒコでのルチャ興行は75年5月1日が初(サントの会社が主催)。同年にマスカラスvsルー・テーズなど2度、UWAが打つものの宣伝不足とあまりにデカすぎたこと、さらに雨天に泣かされた…。そのため以後、屋内のパラシオ・デ・ロス・デポルテスにビッグショーの舞台を移している。プラサ・メヒコをテレビの宣伝効果で復活させたのはAAAの『トリプレマニア1』(93年4月30日)だ。その時は6万人の超満員!! 地上から20m掘り下げられた超巨大すり鉢は圧巻で、私が長くプロレス観戦してきた中で一番の客入りだった。

恐ろしく巨大なすり鉢…プラサ・メヒコ。

スペイン同様、近年メキシコシティでの闘牛は動物虐待によって裁判沙汰となり、2022年6月以降興行は中止になった(地方都市では闘牛やっているかもしれない?)。メキシコには全国各地に大小の闘牛場が存在する。それは日本でいう野球場みたいなもので、各地方都市には日本のプロ野球の公式戦に使える球場のような大型の闘牛場もあれば、草野球の球場みたいな小さな闘牛場もある。これらを全部あげたら切りがない。私はメキシコ市内の大学キャンパス内の闘牛場でのルチャ大会を観たことがあるけどね…。

67年、サントがガチで闘牛にチャレンジ。

私には一度行きたいと願っている闘牛場が3つある。その筆頭がワグナーの故郷で、68年にアンヘル・ブランコがメンドーサを破ってNWA世界ライトヘビー級王者になったトレオン市のバレンテ・アレジャノ(通称プラサ・デ・トロス・トレオン)。何とここはルチャ創世記の1934年からずっと興行が打たれている超歴史的なプロレス会場なのだ。1930年代当初は土曜日にルチャ、日曜日に闘牛(トロス)をセット売りしていた。驚くべきことにここは今も現役で、今年も毎週日曜日にルチャの定期戦が開催されている。90年間も続く長寿プロレス開催の会場…恐らく世界最古なのではないか。それは、まず間違いあるまい!

ルチャは土曜で闘牛は日曜。マツラ・マツダも出た1934年のトレオン闘牛場。
左がルチャで右が闘牛。トレオンのボスターはユニーク。

行きたい二つ目の闘牛場がウルトラマン2000、スペル・パルカなど多くのマスクマンの墓場となったティファナのエル・トレオ(ビッグショーのみ使用)。前述のトレオンも、このティファナのトレオも、ボクシングのビッグマッチが打たれ、前述のルーベン・オリバレスが68年、71年に試合をしている。そしてもう一つ行きたかった闘牛場が『トリプレマニア』などAAAの年間4大ビッグショーに何度も使用されたベラクルス州オリサバのラ・コンコルディア…かな。

さて先週のコラムで触れたメキシコシティのエル・コルティホという小さな闘牛場について、もう少し書き加えたい。60年代、ここでは最軽量のナショナル・ライト級のタイトルマッチが頻繁に行われた。ローランド・コスタ、ラウル・ロハス、ラウル・ゲレーロと3連続で王座が移動する舞台となった。70年代末にはEMLLからUWAの興行に鞍替えされた。私は初めてここへ行ったのは79年2月25日の日曜日。エル・トレオのメイン(イルマ・ゴンサレスvsチャベラ・ロメロのカベジェラ戦)を蹴って、タクシーを飛ばしコルティホ闘牛場へハシゴする。まだ見てなかった“稲妻仮面”ラヨ・デ・ハリスコをどうしても見たかったからのハシゴでした。そうそう、コルティホといえば忘れてならないのが浅井嘉浩。88年7月29日、弱冠21の彼がライ・リチャードを破って初戴冠(UWA世界ウェルター級王座)したのもこの可愛い闘牛場であった。

浅井初戴冠のポスター。絵はコルティホの正面入口。

それ以前に、このコルティホで、ある日本人選手が初戴冠している。メキシコには会場が認定するローカルなタイトルが存在する。このコルティホ闘牛場にもいくつかのタイトルが存在した。そのうちの一つコルティホ・タッグ王座を小林邦昭が獲得したことはほとんど知られていない。邦昭はドレル・ディクソンと組んで81年3月15日にルイス・マリスカル&サタン(フェルナンド・ロサノ)を破ってタイトルを獲得していたのだ。コルティホはメキシコシティ国際空港に近いので東京に例えるなら羽田空港に近い大田区体育館のような感じか…。強引に例えるならば「大田区体育館タッグ王座」か…。ただローカル王座とは言え、マリスカル&サタンはクン・フー&カト・クン・リーやレイ・メンドーサ&ドクトル・ワグナーという強豪チームを相手にベルトを死守してきた実績の持ち主。サタンは聞き慣れないローカル選手ではあるが82年にアブドーラ・タンバを破ってコルティホ・ヘビー級王者にもなっている。格上のマリスカルはディアブロ・ベラスコの門下で、82年2月にスウィート・ブラウン・シュガーの名でロスのアメリカス・ヘビー級王者に1ヵ月間だけなっている。その夏にマリスカルは、邦昭凱旋より1シリーズ早く初来日し、タイガーマスクと対戦。彼は若い頃から「エル・ティグレ」の異名を持ち、後にティグレ・マリスカルを名乗っている。つまり邦昭は帰国以前のコルティホで既に虎をハントしていたのということになる。

邦昭が初戴冠したコルティホのカード。

王者チームの邦昭&ディクソンは獲得から4ヵ月後(81年7月12日)、栗栖正伸&マリスカルにベルトを奪い取られている。栗栖は同年4月のホノルルでヒロ・ササキと組んでポリネシアン・タッグ選手権を獲っているので、これが初戴冠ではない。邦昭(キッド・コビー)は82年7月のロスのアメリカス・ヘビー級王座が初タイトルと言われて来たが、コルティホ・タッグは、それより1年4ヵ月早い。つまりこのタイトルが小林邦昭のれっきとした初戴冠だったというわけだ。マイティ井上&田中忠治のスペイン・タッグのように、とっくに忘れ去られた記憶だろうが、しっかり記録に残っているのだ。残念ながら邦昭も栗栖もコルティホ・タッグのベルト着用の写真をみつかっていない。それでも一つはっきりと言えるのは、小林邦昭こそ、「日本人初の闘牛場チャンピオン」だったということだろう。

さあ、日曜日には“虎ハンター前夜”の小林邦昭と“ウルトラセブン変身前”の高杉正彦にたっぷり話を聞きたいと思う(最後には8・26オールスター戦や国際の貴重なポスター、レアなメキシコ雑誌等が出品されるオークションも久々にやるよ)。

では、“闘牛館”…いや“闘道館”でお待ちしています。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅