ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第648回】40年目の舞台

明けましておめでとうございます。去年もいろいろあったけど、今年もよろしくお願いします。

土曜日には法事があります。私の妻の三回忌が池上・本門寺であります。天気だといいなと思います。早いもので、あの悲劇から2年が経ったということです。一昨年、半年かけて家の中を整理して板橋から綱島に引っ越しました。その際にいろんな物を捨てたけど、思い出の品もたくさん出てきました。メキシコで結婚式を挙げた時のアルバムなどは宝物です。整理の手を止めて、見入ってしまいました。

83年のMVPはアグアヨだった。

これは84年2月17日、メキシコシティのガリバルディ広場(マリアッチ広場)の近くにあるサンタセシリアというイベントホールで開催された『ルチャ・リブレ50周年記念 第12回ラ・ノーチェ・デ・ロス・アルコネス(隼たちの夜)』。いわゆる『エル・アルコン』誌主催の年間最優秀選手受賞パーティーで、年に一度だけEMLL(現CMLL)とUWAの選手、関係者などオールスターが一堂に会するビッグイベントである。日本の東スポ大賞授賞式のようなものと思っていただければいいが、スケールは明らかにこちらのほうが遥に大きい(選手たちは家族同伴で、受賞者たちにはそれぞれ円卓がリザーブされている)。私たちは前日の市内の教会でUWA代表フランシスコ・フローレスの仲人で結婚式を挙げていて、年イチのビッグイベントを披露宴に使わせてもらった。つまりこれに合わせて挙式をしたということ。当日、私自身「最優秀外国人記者賞」を受賞して巨大トロフィーを贈呈されている。ゴング誌からはミショネロス・デ・ラ・ムエルテ(エル・シグノ、エル・テハノ、ネグロ・ナバーロ)に「最優秀来日メキシカン賞」を授与…3つの盾を日本から持参して彼らに手渡した。この時の83年度MVPはペロ・アグアヨ、最優秀新人賞がイホ・デル・サント、最高人気選手がリスマルク、最優秀海外活躍選手はミル・マスカラス、最優秀タッグ=リンゴ&カチョーロ・メンドーサ、最優秀トリオ=ミショネロス、ベストバウト=ミショネロスvsウルトラマン&ブラソス(10月23日=トレオ)、最優秀世界王者=アメリコ・ロッカ、最優秀ナショナル王者=ウルトラマン、最優秀エストレージャ=カネック、殊勲賞=エル・サタニコ、最優秀テクニコ=アニバル、最優秀ルード=アグアヨ…他がもろもろが記念トロフィーを受け取る。

私も女王から大きなトロフィーを貰いました。

またルチャ・リブレ50周年の節目ということでオールタイム…歴代最高の選手やOB、故人の家族と関係者にもトロフィーが手渡された。最優秀ミステリアス賞が2週間前に亡くなったばかりのエル・サント、50年間で最も優れたルードがカベルナリオ・ガリンド、テクニコがタルサン・ロペス、半世紀歴史で最高王者がレネ・グアハルド。また歴代最優秀報道人賞がバレンテ・ペレス、最優秀プロモーターがフランシスコ・フローレス、最優秀功労賞が50年前にルチャ・リブレを誕生させたサルバドル・ルテロ・ゴンサレスで、EMLLの3代目パコ・アロンソ代表が代理でトロフィーを受け取った。そして最高殊勲賞が唯一現役バリバリのエル・ソリタリオ。つまりルチャ50年の歴史においてソリタリオが一番の選手であるという評価がなされたのである。そんな表彰式が延々と続き、合間には受賞者たちが歴代のレイナ(ルチャ・リブレの女王)たちとダンスをする(マスカラスも踊っていたよ)。午後8時に始まった式は午前2時でもまだ終わらない。夜の強いメキシカンたちのパーティー…恐るべし。私たち夫婦にもボックス席がリザーブされていて、そこを起点に他の選手の卓を巡回して、私は妻をエストレージャたちに紹介し、祝福を受ける。すると会場の隅の薄暗い場所に顔見知りの男を発見。出席者たちはマスク&ドレスコードが義務づけられていて、この日のために仕立てた特別のタキシードやスパンコールのマスクを着けているが、その男はラフな普段服で、マスクマンなのにマスクを被っていない。「なんで中に入らないの?貴方は受賞者じゃない。マスクを持ってないの?」と尋ねる。確かに彼は「エル・グラン・プレリミナリスタ」(偉大なるDH)みたいな感じの賞を受賞していたはず。「いやあ、俺はこういうきらびやかな舞台が性に合わないんだ。だからこっそり覗きに来たんだ。パーティーの後でトロフィーは貰うよ」。そう言ったこの男こそ、私が“暴力戦士”と名付けたフエルサ・ゲレーラその人だった。当時、ナショナル・ライト級チャンピオンである。

私の妻と素顔のフエルサ。

彼は小鳥のカゴやエサなどを扱う店の経営者でもあったので、私は日本語で「シャチョー!」と呼んでいた。そう呼ぶと照れくさそうにする。半分、からかっているのだが、彼は私よりも3つ年上(当時は1つ鯖読んでいた!?)。「シャチョー」と呼ばれるのも、まんざら嫌でもなかったようだ。「ああいう舞台は俺の性に合わないから」と、影に隠れていた男が40年後に私のイベントに出るということになろうとは…実に不思議な縁である。妻が生きていたら「シャチョーに会いたい」ときっと言っただろう。金婚式まではお互い元気でいたいと思っていたけど、40年のルビー婚式を前に私を置いて天に去ってしまい、私はソリタリオ(孤独な人、ソルテーロ=独り者)となった。今回のイベントポスターに「46年」と書いたが、フエルサのデビュー1981年8月(当時すでに27歳)。だから今年で実際はフエルサになってから43年目になる。ただし、本人は現役生活50年を謳っているので、フエルサ・ゲレーラ以前に別キャラで試合をしていたということである。

選手生活50年限定マスク。

それはともかくとして、その50周年記念限定マスクも出たようなので、「1枚でいいから持って来て」と頼んでおいた。フエルサのマスクはデビュー当時から頭が青と赤のハーフで、顔が銀だった。最初は目の部分が開いていたが1年足らずで目にマヤ(網)がかかる。つまり42年間、彼は瞳を公衆に晒していないことになる。85年頃にマスクの頭が深緑、顔が黒になったことが88年くらいまで続き、また元の青と赤のハーフに戻る。92年1月、ちょっとだけ頭が黄色で顔が紫だった時期がある(これはレアだ)。その年には現在にように顔と目が銀から黒になる。後ろにサスケのようなヒラヒラを付けたのも90年代である。

頭が緑で、顔が黒の2色の時代は3年くらいあった。
92年1月31日、オクタゴン戦の黄色&紫。

他にもクリスマス仕様とか、いろんな色があったようだが、基本カラー&デザインが一貫して変わらないというのが、昔気質のルチャドールだと好感を持つ。彼のマスクはデビュー時からデポルティボ・マルティネス製(ビクトル)だったが、途中、いくつかのメーカーを梯子しながらラ・フリア(アルフレッド・エルナンデス)に辿り着く。その期間はとても長かったが、フリアが死亡すると、フエルサは自分でマスクを作ることを決意したという。彼は自分以外の選手やOBに頼まれると、マスクを作って納めたという。GスピリッツVol.70のマノ・ネグラ取材時のマスクはフエルサ製である。他に彼が本人に納めたと言っているのはマスカラ・アニョ・ドスミル、ドクトル・ワグナー・ジュニア、ブルー・パンテル、エル・タリスマン、ピエロー・ジュニア、アリストテレス…といったところだが、他にももっといそうだ。自分のもの以外にはどんなマスクを日本に持って来るのだろうか…。トークでは40年間、積りに積もったフエルサ・ゲレーラ社長に対する疑問を思い切りぶつけてみたいと思う。お楽しみに…。オプションでサイン会やツーショット撮影会もありますよ。

46年ではなく、43年間でした。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅