ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第649回】諏訪の豪傑

 年末に吉澤幸一さんのお墓参りのため諏訪へ行った。吉澤さんに関してはGスピリッツvol.70の追悼文で触れている。アメリカ全州にペンパルが居て、そこから米国マットの情報を収集して月刊ゴングの発展に尽くした海外レポーターの先駆け…「世界のコウイチ・ヨシザワ」である。長年、上諏訪に住んでいたので“諏訪の吉澤さん”として知られているが、生まれは諏訪湖畔の西、岡谷市で、お墓も岡谷にある。映画『あゝ野麦峠』で知られたように岡谷はかつて製糸業が盛んで、戦後は精密機械工業やお味噌の生産が日本一になった。諏訪湖から天竜川が始まる水門があって、鰻の名産地でもある(当然、食しました。美味し…)。

吉澤さんの墓前で、たくさんお礼を…。

 前日の宿泊は上諏訪温泉。ホテルでの朝食は抜きにして、朝は吉澤さんに教えられた大正時代からやっているパン屋さんへ。その『太養パン店』の一番人気の鯖サンドを買って食べた(これまた美味し)。実はこのパン屋さん、吉澤さんに教えてもらう前に知っていた。それは2006年にグリーンチャンネルの全国の競馬施設の跡地を訪ねる番組で、ここのパン屋が紹介されたからだ。ここのご隠居の奥村福人さん(1929年生まれ、当時77歳)は、かつて上諏訪競馬場のジョッキーであった。和菓子職人だった父親秀一氏がハワイ移住したときに食べたパンに衝撃を受け、帰国して独学でパンを作り出し、大正5年(1916年)に開業、大当たりする。そこの御曹司の福人氏はまだ日本に何台も輸入されていない時代にポルシェやベンツやハーレーを乗り回していたという。「僕は生まれてこのかた一度も仕事をしたことがない」と言い張る。ただ「幼い時から乗馬をしていて学生時代に東京の馬事公苑で腕を磨いた。それに目を付けた大井の有力馬主が無理やり僕に上諏訪競馬の騎手免許を取らせたんだよ」と漏らす。

太養パンのお洒落な店構え。
朝6時半からこのすごい品揃え。

諏訪のプロレスの聖地と言えば、諏訪湖スポーツセンター(現・清水町体育館)。79年11月には井上&浜口vs上田&フジイのIWA世界タッグ、80年1月には馬場vsブロディのPWF戦が行われた会場。吉澤さん曰く、「この体育館が出来る前、プロレスは下諏訪か岡谷の野球場でやっていました。その頃、体育館というものは松本まで行かないとなかったですよ。諏訪はここが出来てやっと屋根のある場所でプロレスが観られるになったんです」。現在、この元・諏訪湖スポーツセンターと隣接する清水町野球場、諏訪市立中学校、諏訪実業高校のある場所に、かつて上諏訪温泉競馬場(1周1000m右周りコース)があったのだ。日本初の馬の温泉も併設していたこの競馬場は、昭和9年(1934年)から昭和35年(1960年)まで競馬が開催していた。吉澤さんは幼少期にこの競馬場に来たことがあったという。「父や祖母に連れられてね。凄い賑わいだったのを記憶しています。いろんなものが食べられる出店、露店が出るのが楽しみで、開催日はまるでお祭り騒ぎですよ。今から思うと1万人以上入っていましたね。諏訪以外の場所や県外からも人が集まってくるみたいです。羽織の紳士、背広の紳士、男子はみんな帽子を被っていましたよ。力道山のプロレスを野球場に観に行ったように、プロレス以前の大人たちの娯楽…イベントは競馬だったんですね」。1年2開催、1開催が6日間で計12日…戦争で中断した時期もあったが、開催日には地方から貨車に乗って馬たちが集まって来たようだ(県下なら松本にも競馬場があった。1925~31年)。奥村氏は3年間で騎乗した約70のレースで何と全て勝利したという。全勝…俄かに信じがたいが、「1回も負けてない。本当に」と言い張る。当時の草競馬はサラブレッドやアラブばかりでなく農耕馬や観光地の使役馬も一緒に走っていたようだ。奥村ジョッキーの騎乗技術がず抜けていたのだろうが、乗っていた馬もポルシェやフェラーリのような上質のサラブレッドだったのではないか(それなら全勝してもおかしくない)。本人は「強い馬にしか乗せてもらえなかった」と笑う。私は今なお現地に名前が残る「競馬場橋」「競馬場踏切」を確認しながら、いにしえの思いに浸る。現在、体育館があるのは2コーナー付近にあたる。そこで馬場が試合をしていたのは洒落でも何でもなかろう。馬場と馬場が…いや、馬場で馬場がクロスした…。

「競馬場橋」の名が残る。後方が体育館。
中央本線に「競馬場踏切」の名が。

 吉澤さんにグリーンチャンネルのこの番組の話をしたら、何と吉澤さんは奥村さんとお知り合いだったのだ。「奥村のじいちゃんに私は可愛がってもらったですよ。同じ岡谷生まれの上諏訪育ちなんで。いつもご自宅の居間に通してくれて、いろんな昔話をお聞きしましたよ。あのパン屋の前には毎回違う高級外車、見たことないスポーツカーが置いてあったです。ほとんど飾ってあるだけで本人はほとんど乗らない。ただ、それに乗るのは戦後、やっと甲府に出来たボウリング場に通う時だけ。甲府までまだ舗装されていないダート道をポルシェで行ったとか…。それも朝と午後に2回もボウリングをしに…。戦後、間もないというのにスカイダイビングとか、パラグライダーとかハンティングをやっていたと。だから仕事もしないで世界中へ行って遊びまわったみたいですよ」。戦後の混乱期からずっとこんな破天荒な生活をしていた人がいるんだね。スティーブ・マックイーンの映画『華麗なる賭け』みたいだなあ。でも、社史では昭和30年に『太養パン』の2代目社長ということになっている。

諏訪湖スポーツセンターは現存。

吉澤さんが奥村氏のさらにすごく興味深い話をしてくれた。「奥村のじいちゃんはイギリスで買ったという黄金の小型ピストルを持ってたんだって。それは世界に幾つもない超貴重品だったみたい。その噂を何処で嗅ぎつけたのか力道山が“それを是非、譲ってほしい”と連絡してきたという。じいちゃんはプロレスに興味ないし、力道山の事もほとんど知らない人(当時、珍しい)。でも、自分がその銃を持っていても仕方ないので中央本線に乗って東京へ行ったわけ。すると新宿駅のホームがガタイのいいレスラーらしき男たちがズラッと並んでいて“先生どうぞ、どうぞ”って出迎えられたって。それで力道山に会って黄金銃を渡したらしい。“力道山はとっても紳士でしたよ”って言っていたよ」。それが奥村氏とプロレスの唯一の接点だったという。そんな秘話を私が吉澤さんから聞いた頃に奥村さんはすでに亡くなっていた。吉澤さんだけじゃなかった…神々が集う諏訪は隠れたレジェンドの産地だということを記憶に留めてほしい。もし諏訪へ行ったら大正生まれの老舗『太養パン』を是非寄ってみてほしい。すごい品揃えで、すごく美味しいですよ。

いよいよ日曜日。

 さて、日曜日はフエルサ・ゲレーラとのトークショー。私も楽しみですが、みなさんも楽しみにしてください。秘蔵映像やお宝マスクも登場します。そうそう、私のローリン製のニューマスクもメキシコから無事に届きました。ここがデビュー戦になります。フエルサ本人もかなり気合いが入っている様子。あのアントニオ・ペーニャも舌を巻いた策士が満を持しての来日です。私に、そしてみなさんにどんな仕掛けを用意して来るのか…。逆にみんなで謎のベールを剥がしましょう。闘道館でお待ちしています。

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