ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第619回】恐竜の種明かし

グラハムvsマスカラスのMSG初戦。

“スーパースター”ビリー・グラハムが18日に亡くなった。79歳だった。訃報を聞いて、頭に浮かんだのは竹内さんとウォーリー(山口)。あの2人はビリー・グラハムが大好きだった。1977年12月のMSG定期戦でWWWF王者グラハムにミル・マスカラスが初挑戦した直後のこと…最新ニュースの提供者は米マット情報通の吉澤幸一さんで、それは竹さんにもたらされた。そして竹さんは「ユー(山口雄介の雄)、1月のMSG定期戦でグラハムとマスカラスの再戦がある。その2日後のマイアミでレイスとNWAとWWWFのダブルタイトルマッチがあるんだ。一緒にアメリカに行こうぜ。資金は帰って増刊を出せばいいから」と誘う。竹さんのマスカラス好きは有名だが、一番好きなのはフリッツ・フォン・エリックで、マスカラスと同格で大好きなのがビリー・グラハム。ウォーリーはもともとヒール好き。その頃、彼のど真ん中はグラハムとハーリー。なので「イエス、サー」で即GOだ。そしてMSGとオレンジボウルのエプロンサイドからウォーリーが写真を、リングサイド最前列から竹内さんは8ミリカメラを回した。藤波辰巳のMSGデビューが観られたのは、あくまで現地での副産物であった。帰国後、私はその8ミリを何度も観させてもらった。このアメリカ取材旅行後に2人は2冊の写真増刊をあっという間に出している。すごいバイタリティだなあと感心した。

ジェリー・グラハムとのヒッピー兄弟。

 私はかなり早い時期にビリー・グラハムの名を頭にインプットしている。スチュ・ハートのコーチを受けてカルガリー地区でデビューしたグラハムは70年8月にロス地区に入った。最初の抗争相手はパンテラ・ネグラ。その時期に小鹿さんがロスにまだ居たし、いつマスカラスがテキサス地区から戻ってくるかわからないので、ロス地区のロースターは常時チェックしていた。ジェリーでも、エディでも、ルークでもないグラハムの名は気になった(その時、ロスにいたジェリーが四男のビリーとスーパースターの名を名乗らせたというのが定説だが、もしかしたら最晩年の策士ジュリアス・ストロンボーによるアイディアなのではないか…)。スーパースターというイメージよりも、当時のグラハムは、この年公開の大ヒット映画『イージーライダー』に出てきそうなヒッピー族キャラみたいだった。9月に高千穂さんが初の武者修行のためにロス入りしてからは何度もグラハムと対戦している。グラハムが初めて対戦した日本人は高千穂さんだと思う。ベビーのフレッド・ブラッシーやロッキー・ジョンソンと戦い、ジョン・トロスのパートナーになったことはグラハムにとってプラスに働いたと思う。そして11月20日のオリンピック・オーディトリアムにテキサスからUターンして来たマスカラスと一騎打ちをしている。まさか、この2人が7年後にMSGでWWWFのベルトを懸けて戦おうとは、想像すら出来なかった(その後、グラハムはロスでレイ・メンドーサとも戦って負けている…)。

ロスでのマスカラスvsグラハム。

 グラハムはその後、シスコでパット・パターソンと組んでブレイクし、一度ロスに戻ってから72年9月にAWA入りした。本当に彼をメインエベンターとして成功させたのはバーン・ガニアだろう。かつて何処かのボディビルコンテストに優勝したというが、ロス時代のグラハムは身体に薄っすら肉が乗ってプロレスラーらしい体型だったが、AWAではムキムキマンに再構築されている。西海岸ではヒッピーをスーパースターと皮肉ったキャラだったが、AWAではスーパーボティがスーパースターの証のようになった。この年の暮れからワフー・マクダニエルとのロング抗争がスタートし、73年の夏にはガニアのAWA世界王座にも挑戦している。竹さんが“恐竜”ビリー・グラハムに食いついたのは、この頃だった。そしてAWAと提携している国際プロレスの吉原社長に「グラハムを呼んでくださいよ」と再三リクエストしたという。ただ、TBSの撤退で国際は窮地に立たされ、AWAからの大物なんて、そんな浮いた話は戻って来なかったようだ。

 74年夏前。吉原社長から「東京12チャンネルと契約出来て、グラハムをIWAチャンピオンとして初来日させるから、いろいろ頼みますよ」とゴング編集長の竹さんは協力を要請される。吉原社長は71年6月にストロング小林がビル・ミラーを破ってチャンピオンになったという証拠写真がなかったことを気にしていたらしい(実際、ミネソタ州ダルースでそんな試合は行われていない)。それで竹内さんに協力を求めてきたのだ。竹さんは吉澤さんに「グラハムの最新写真を集めて。それと何でもいいからグラハムとロビンソンが戦っているカラー写真を手配してほしい」と依頼する。ロビンソンは6月3日の後楽園ホールでのラッシャーとの決定戦で勝利し、IWAのベルトを主戦場のAWA地区へ持ち去った。ロビンソンがもう来ないならば、嘘でもいいからベルトを移動しなくてはならない。暫くしてAWA地区の通信員から送られて来た写真はグラハムとロビンソンの対峙した6人タッグ。その中からグラハムとロビンソンの攻防だけを抜き出してシングルマッチ風に見せかけ、タイトルマッチとしてグラビアに仕立てたのである。「8月16日のデンバー」という設定も作りもの…。まあ、この手の操作は、ゴングに限らずその時始まったことではないが…。

王座移動を偽装したIWAタイトルマッチ。
合成したグラハムのベルト写真。

さて当然、このグラビアにはグラハムが奪取したシーンは勿論、チャンピオンベルト姿はない。そこで竹さんは活版ページ(藁半紙のようなザラザラの紙質)でグラハムがIWAのチャンピオンベルトを締めている合成写真を作った。これが完成した時に「幸一さん、いいのが出来たよ」と竹さんは喜んで電話してきたという。74年本誌ゴング10月号の表紙とピンナップはグラハムと一緒来るバロン・フォン・ラシク(3度目の来日)とのツーショット。巻頭カラーも7ページがグラハムもの。その中に例の偽タイトルマッチの見開きがあった。それだけではない。モノクロの厚紙オフセット8ページでグラハムだけの特別グラフ。さらには活版の巻頭で単独インタビュー、ラシクとの対談など特集を1~4弾まで並べ、計11ページも割いている。その中には例の合成写真の王座奪取レポートがあった。つまりグラハムのために割いたページは何と合計26ページ! Gスピもびっくりの大特集だ。国際プロレスのために、これほどの特集が組まれたことは過去にもその後もない。

グラハム大特集の74年10月号。

 70年12月号の初の金網デスマッチ(木村vsドクター・デス)の時はカラー1、モノクロ厚紙が8、活版が2ページだった。でも、それは試合の結果で、1選手の煽り企画ではない。この号はマスカラスの初来日級の超煽り立体特集だったといえる。「金網の時も来たけど、あのグラハムの時も吉原さんからお礼の電話が来たよ」と竹さんは言っていた。あの時点でこのシークレットを知っていたのは竹さん、吉澤さん、吉原さん、菊池孝さんら数人だけ。この号はテレ東と再出発する吉原さんにとって最高の贈り物だったといえる。そして私もウォーリーも、あのグラハム特集を見て、さすがゴングだと何もかも信じたものである…。ただし、天才編集者の竹内さんにも誤算があった。9月14日、羽田空港に降り立ったグラハムが旅装を解いて出て来たベルトは、合成した写真のものとは違う新しいベルトだったからだ(ニキタ・マルコビッチ製)。

まさかのマルコビッチ製新ベルト。

『検証 チャンピオンベルトの謎』という増刊を一緒に作った時、竹さんは「あの時は…」と、その話をし出した。「俺と吉原さんの中では完璧なストーリーが出来上がって、やっと本になって書店に出したのに、吉原さんは新しいベルトを造る話はしてくれなかったよ。それ、大事だったのに…」と悔しそうにしていた。私は当時「あれっ?」と思ったけど、そこまで細かく見ていた読者はどのくらいいただろう。そこからさらに4年…MSGで竹さんの前に現れた王者グラハムはIWAと同型のWWFマルコビッチ製ベルトを締めていた。憧れのスーパースターを前にした竹さんの満足そうな顔、「かっちょいいなー」と、はしゃぐウォーリーの笑顔が私の脳裏を通り過ぎる。今頃、天国で2人は「デスマッチインタビュー」か「ピラニアインタビュー」をしていると思うよ。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅