ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第590回】「おっ、元気?」の声

  三遊亭円楽さんが亡くなられただけでも大ショックだったのに、翌日にまさか猪木さんが亡くなられるとは…。いやあ、重すぎて、何を書けばいいのか…出て来ないよ。多少の覚悟はしていても、もっと後のことだと思っていたから…。

 最初は円楽さんから…。我々プロレスマスコミの中では「楽太郎さん」、「楽さん」、「楽太郎師匠」と呼ぶほうが親しみやすい。私が編集長時代に楽さんは全日本の常連のお客さんで、師匠のほうから声を掛けて頂いてびっくり。以来、お会いするたびに楽しく気軽にお話をさせてもらった。天龍さんとの繋がりからウルティモ・ドラゴン(浅井嘉浩)との親交も深まる。1992年9月15日の横浜アリーナで私の息子がウルティモ・ドラゴンにエスコートされた初代ミニドラゴンをやったのを見た楽太郎さんは「ウチの息子(一太郎)にもミニをやらせて」と浅井に直訴。ウルティモ・ドラゴンシートも来日した時に私の息子と一太郎くん他数名がまとめて変身…ミニドラゴンが増殖するという演出をした。会場の裾でステージパパの楽さんと私が心配そうに見守っていたなんてこともありました。

そんなこともあって、メキシコから「闘龍門」が日本に逆上陸した頃に師匠はご自宅を合宿所のように提供しておられた。私も一度ご自宅にお邪魔したことがある。広いリビングに、さりげなく笑点の座布団が置かれていたのが印象に残る。それから私の父の葬儀にはお花も出していただいた。こんなこともあった。いつだったか、たぶん新日本の興行だったと思う、長岡(厚生会館)での取材後、駅の一角の地酒売り場へ行くと、そこで偶然、楽太郎師匠とバッティング。お互いに美味い酒をお土産に買って帰ろうと吟味していたら、肩と肩が触れたのだ。「えっ、師匠なんでここに!?」、「こっちでちょうど高座があってね。米どころの本当に美味い地酒を飲むと極楽気分になるんだよ。だから旅先の米どころでは必ず都内で手に入らないような酒を買って帰るようにしているんだ。まあ帰る前に飲んじゃうこともあるけれどさ」と気さくに笑っておられた。師匠は今、美味い酒を飲んで極楽におられるのかなあ…。師匠、たくさんの笑いをありがとうございました。合掌。

 そして猪木さん…。何せ、半世紀以上の年輪があるわけで、どこから書けばいいのか…。日本プロレスの若獅子時代からのファンだったけど…そこをずっと飛ばして私がゴングに入った頃の猪木さんとの接点について書こう。入社後、最初にご挨拶に行ったのが1981年2月12日の後楽園ホールの控室だった。「おお、ゴングなら竹内さんの所だな。歳はいくつなの?」と聞かれた。緊張していた私が「24です」と答えると、「24か、若いなあ。俺はもうすぐ38だよ。40が見えて来た。24の時に俺は何していたかなあ」。「たぶん馬場さんと最初に組んだ年では…」と私。新日本の控室で馬場さんの話をしてはマズかったなと思っていると、「そうか、あれが24かあ」とニッコリ頷く。私は落ち着かなかった。シンが来ているシリーズだったから、どの控室にどう潜んでいるのか、わからなかったからだ。猪木さんの側に居れば大丈夫と思いつつ、通路で突然出くわしたらどうしようと気が気でなかった。最後に「まあ、頑張って、新日本を応援してくださいよ」と優しい言葉を懸けてくれたのが嬉しかった。馬場さんにご挨拶に行ったのがその前日の流山市民総合体育館の控室。「今度、ゴングに入りました清水です」と挨拶すると、ファンクラブをやっていた時からの顔見知りではあったけど、ジロっ見られて「あっそう…」と実に素っ気なかった。それだけに猪木さんの優しい対応は嬉しかった。たった2日間でプロレス界の両巨頭の素顔を見たような気がした。誰もがアントニオ猪木の人間的な魅力に惹きつけられる意味がわかったような気がした。逆に馬場さんの人の良さがわかるまでには、ここからかなりの年月を要したのも確かだ。

 大会場のビッグマッチの当日だとピリピリしていて猪木さんとマンツーマンで話をすることは中々出来ないが、地方へ行くそういう機会がある。地方でもテレビマッチとかだと周囲がドタバタしているし、他社の記者と一緒になってしまう。それがノーTVのドサ回りとなると1対1になる機会も、他の選手との交流の場も出来る。竹内さんは旅好きの私に別冊ゴングの「オラが町にプロレスがやって来た」という企画の大半を任せてくれたのでドサへ行く機会が多かった。選手たちは長いドサが続くと日々が単調になるようだ。試合前の練習を前後して選手たちは暇そうで、刺激がほしがっていた。だから、みんなが物珍しそうに私に声を掛けて来る。新日本なので、やはり最初に猪木さんに挨拶へ行く。これは猪木さんに限らずだが、第一声は「あれ、今日何かあったっけ?」か、「えっ、こんな所に何しに来たの?」だった。猪木さんにこういう意図で取材に来たんですと伝えると、「そうかあ、俺たちは毎日旅しているから、そういう感覚がわからないけど、都会のファンにはこういう田舎のプロレスは珍しい光景なんだろうな」と関心を示してくれた。その日の会場は愛媛県宇和島市闘牛場(81年5月31日)。「今日は闘牛の牛みたいな奴がいっぱいいるからな。輸入牛だけど」と猪木さんはジョークを飛ばして笑っていた。輸入牛とはハンセン、ダンカン、あるいはローデスのことか…。

 福島県の喜多方市ひばりヶ丘球場(9月13日)の時は1対1ではなく、1対2だった。試合前のリングでの練習の時、「えっ、何しに来たの?」と驚いたのは猪木さんではなく、隣にいた新間さんだった。「新間さんこそなぜここに?」と問うと「ここはウチの実家があるから俺にとって里帰りなんだよ」。新間さんの喜多方の思い出話を猪木さんと私が聞き入る。そんな猪木さんと新間さんののんびりした世間話を間近で聞けたのも、ドサならではの出来事だったといえる。リングサイドで試合前にストレッチや縄跳びとかしていて一息つく…すると暫くして入口のほうから「お客さん入れますよ」と係から声が掛かる。その瞬間に猪木さんの目がきりっとして眉毛が吊り上がるのを何回も見た。プロフェッショナルとしてのスイッチが入る瞬間である。それが好きだった。

 翌82年の赤穂市総合体育館(1月26日)。猪木さんには、やっぱり「えっ、何しに来たの?」と言われた。次の言葉には驚いた。「全日本には行っているの?ハンセンは元気にしている?」だった。ちょっとドキッとした。全日本にハンセンを引き抜かれて1ヵ月ちょい。まだ現場にはピリピリした雰囲気はあったように思う。私はハンセン全日本移籍第1戦の木更津市倉形町スポーツ会館(1月15日)も、第2戦の大和市車体工業体育館も取材に行っていた。元気かと言われたので、ちょっと変だけど「元気ですよ」と返した。「そう…」。後で大塚さんに聞いたら「(猪木)社長はハンセンを引き抜かれたの、別に怒ったり、気にしたりしていなかったですよ。全日本さんのことも相手にしていませんでしたから」と言っていたけど、怒りかどうかは別にして私には気にしている素振りを見せた。2日に後に迫った東京体育館でのブッチャー戦がどこか盛り上がらず、さらに1週間後の同じ東京体育館の馬場vsハンセンが注目されていることを気にしているようだった。この日、全日本はオフで久留米から徳島へ移動中だったので、赤穂周辺でニアミスしていたはずだ。その後、猪木さんは何やら寛水流空手の話を楽しそうにしていた。

記憶通りだと83年1月15日に宮崎県西都市民体育館へタイガーマスクの取材で行った時からだったと思う。「何しに来たの?」ではなく、笑顔で「おっ、元気?」と言われた。「おっ」ではなく「おう」だったかもしれない。翌日の鹿児島県川内市立体育館では「おっ、今日も来たのか」だった。以後、「おっ、元気?」が定番の挨拶みたいになった。観察すると顔見知りには誰にもそう言っていたように思う。私も2年がかりで顔見知りの一人になれたということなのかもしれない。「おっ、元気?」に対しては「はい!」と笑顔で返すようにした。それが猪木さんに対するマナーだと思ったからである。それが90年代以降の「お元気ですかーっ!?」というマイクパフォーマンスに繋がったのかどうかは知らない。でも、確かに「おっ、元気?」といつも言っていた。ただもう「おっ、元気?」というあの声ももう聞けないし、その時の笑顔ももう見ることはできない…。

 猪木さんの話をテープに録音して、それを丸々起こして原稿にして読み返すと、何を言っているかわからないものになってしまう…これ、マスコミ内の都市伝説。それは私にも経験がある。成田空港で猪木さんにインタビューして原稿にしたら、確かに出来上がりが妙で、中身がなくて見出しを付けるのにも苦労した憶えがある(ただ、決め写真だけは、いつもバッチリ格好いいのだ)。それこそ「猪木マジック」というか、話の途中から猪木さん独特の話術、独自の世界に引きずり込まれてしまうのだ。その場で聴いている限りは「なるほど」と頷くことばかりなのだが…。書かずに聴け、聴けばわかるさ。それは長年の経験から導き出した事で、猪木さんの話は文字にするものではなく、耳で聴いて、心で感じるものだと思った。映画『燃えよドラゴン』でブルース・リーが弟子に“Don't think! Feeeel!”と説いたセリフと重なる。「五感を研ぎすませろ」である。アントニオ猪木のフィロソフィーを解明するのはプロレスファンに課せられた永遠のテーマなのかもしれない…。

猪木さん、長年、熱い夢をありがとうございました。改めて合掌させてください。

 

 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅