ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第583回】聖者の光背

久しぶりのドラゲーに行った。恐らく15年ぶり…いや、それ以上か。そこには懐かしい顔にいっぱい出会った。ドン・フジイ、ドラゴン・キッド、望月マサアキ、望月ススム、新井健一郎、堀口元気、神田ヤスシ、土井成樹、このまま市川、斎藤了、菊池リングアナ…「あの時はみんな20代でしたけど、もう俺たち40ですよ」と笑うが、みんな元気だったのが嬉しかった。ウルティモ・ドラゴン校長とも久しぶりに旧交を温める。誰もが私の訪問の目的がイホ・デル・サントだと知っている。それでもいいじゃないの。それがきっかけでみんなに会えたんだから…。聖者はそれだけ人を引き付けるパワーがあるということだね。

後楽園でサントと再会しました。

 そのサントはもう61歳。大怪我をして一度引退したものの復帰しているが、とっても元気だった。前回、会った時に「息子(ニエト・デル・サント)はどうしているの?」と訪ねると「ルチャドールになるのは止めて、ニュージーランドに留学している」と言っていたが、今回聞いたら「カリフォルニアで音楽関係の仕事をしている」と…。元気そうな写真も見た…26歳。一時はノアに入学してルチャドールを目指していたが、聖者3世誕生は幻に終わりそうだ。聖者伝説は2代目で終わる…だからイホ・デル・サントは、しっかりこの目に焼きしけておかないと。

イホとガブリエルさんの両親とニエト。

 イホ・デル・サントとの付き合いも長い。1982年8月22日、パラシオ・デ・ロス・デポルテス、父親のエル・サント引退試合へ取材に行った。その時、彼はまだデビュー前だったが、引退セレモニーの時にマスクを被ってリングへ上がった。それがイホ・デル・サントの公式の場における初登場だった。だから彼とは丸40年間の付き合いだ。「懐かしいなあ。あの時はリングに上がるだけで緊張していたよ。40年は早いね」としみじみ語る聖者の子。後楽園ホールでの6人タッグも元気いっぱい。トペ・アトミコからのカバージョも60台とも思えぬ動きだった。日本デビューは1990年6月1日のここ後楽園。そこから32年も経っている。「そうだったなあ。アサイ、ケンドーと組んで相手はネグロ・カサス、フエルサ・ゲレーラ、あと誰だったかなあ…」と呟くサント。

90年、初来日時のサントと私の息子。

 イホ・デル・サントの家には16年前に行った。父サントのレアなマスクや父子がマスカラ戦で獲得したマスクがたくさん展示されていた。サント関連の資料もたくさんあったし、さながら聖者博物館だった。ツアーには今回も妻のガブリエラさんが同行していた。彼女から4年前に引っ越した豪邸の写真をたくさん見せてもらった。私があの展示品は?と聞くと「いろいろあってねえ…」と口を濁す。サントは実姉と未だに父サントの遺産・遺品の件で揉めているようだ。メキシコ中心地にあるサントのオフィシャルブティックにも何度か行った。あの店の品は他のメキシカンものとはデザインも材質も仕立ても違う。だから値段も高い。ここでお土産を買ったし、いろいろ貰った。

 翌日はノアに参戦するというので、珍しく2日続けてプロレスを観た。初めて行く横浜武道館。途中の横浜文体はもう建物が無くなっていて、工事用の囲いがしてあった(寂しいなあ…)。で、奇麗で大きい武道館へ入る。ここでも懐かしい顔にたくさん出会った。一番喜んでくれたのは丸藤くん。あれは2004年12月、私は丸藤、KENTAのメキシコ初遠征に同行している。「あの時はとってもお世話になりました」と丸藤くん。ソチミルコ、モンテレイへ2回、ゲレーロ州のチルパンシンゴ…いろいろ行った。正直な話、私がそこにいなければ成立しなかった遠征だったと思う。だから「本当に世話しました(苦笑)」と私。いつか、その時のことを書けたら、面白いかもね。

横浜武道館のノアの試合後に記念撮影

 サントはこの日がラストマッチ。ウルティモ・ドラゴン&丸藤と組んでNOSAWA論外&スペル・クレイジー&鈴木鼓太郎に快勝した。そうそう、サントが今回持参したのはWBC(ワールド・ボクシング・カウンシル=世界ボクシング評議会)の名誉世界チャンピオンのベルト。WBCはメキシコでCMB(コンセホ・ムンディアル・デ・ボックス)と呼ばれ、1990年、CMLLとはこれを模して付けられた団体名だ。1966年にWBAから独立したWBCは本部をメキシコに置き、1975年に会長に就任したホセ・スライマンの尽力で世界165ヵ国が加盟する大組織になる。2007年11月15日、フィリピンでのボクシング興行でサントはルチャの試合を披露して、スライマン会長からプロレスラーとして初めてのWBCベルトが贈呈されたのである。

「ホセ・スライマンは2014年に亡くなって、今は息子のマウリシオが会長だよ」とサント。そういえば私は20年数前、WBCのベルトを知人から預かっていたことがある。家に置いておいても、飾ってみても、ボロ家には映えないので、暫くして返した。あの頃はチャンピオン以外、決して手に入るシロモノではなかったから、ゴング編集部でかなり大受けした。そのベルトの裏を見たら、「MADE IN TAIWAN」になっていた。でも、サントのベルトには製造国が書いてなかった。

サントのWBCレジェンドベルト。

 WBCが独自に統一ベルトを造り出した当初から黄緑ベースにただの金色の丸い中央プレートだった。最初、サイドは何も無しだったが、その後、2つの小さい丸い金色プレート付く。中央プレートの下部には、その頃の提供社の「adidas」のロゴが入っていた(ベルト自体は最初、革ではなく布だった)。初代IWGPベルトもこのWBCベルトを模して丸いデザインにしたと聞く。片手を上げるボクサー像には当初の加盟国10の国旗が絡められ、これが同団体のシンボルマークとして使用である。加盟国の国旗をベルトに入れる…それを真似たのが1973年のNWA世界ヘビー級の「レイスモデル」(メキシコのマヌエル・サバラ製)である。

WBCがチャンピオン全員にオリジナルベルトを贈呈し始めたのはいつ頃からだろうか。その後、現在のように中央プレートの外周を三重の国旗が配したデザインに変更され、新王者が誕生するたびにベルトがプレゼントされるようになる(現在は黒地にベルトを配したTシャツも贈呈)。サントのベルトの国旗をザッと数えてみたら152あった(レイスモデルは5ヵ国)。サイドプレートの缶バッチ風の写真は左右がジョー・ルイスとモハメド・アリ。“褐色の爆撃機”ルイスは世界(ヘビー級)王座25連続防衛記録保持者で、引退後は全米各地のプロレス興行の特別レフェリーに駆り出された(69年12月19日にはロスで小鹿さんとダブル特別レフェリーをしたこともある)。アリとルイスは不動の定番で、サントベルトの場合はサイドプレートの奥はサントの顔写真だった。

WBCは2014年にベルトをリニューアルしている。緑と金の基本カラーは変わらずで、ロゴが新しくなった。ボクサー像は上半身になり、10ヵ国の国旗の配置も変更された。サントベルトは旗の下の端が星条旗で、上端がユニオンジャックだったが、現在のロゴは下端が日の丸(やたら目立つ)で、上端がアメリカ国旗になった。議長国メキシコは、いつも2番目と控えめだ。さらに写真の数が左右3つずつ計6個になった。アリとルイスは不動で、亡くなったスライマン会長も確定。他にシュガー・レイ・ロビンソン、ジョー・フレイジャー、マイク・タイソンなどのレジェンドはケース・バイ・ケースで入るらしい(残りの1枠はご本人の写真)。プロレスも含めて、世界中で最も露出が多く印象深いチャンピオンベルトはWBCベルトではないかと私は思う。もし、プロレスの世界でWBCのようなベルトがあって、現王者を抜いた5人のレジェンド写真を入れるとしたならば、あなたは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、タイガーマスク…あと1人を誰にしますか!?

さて、来週末はプロレスのチャンピオンベルトの深イイ話を語る日。8月27日(土)、『第2回チャンピオンベルト・カーニバル』を闘道館で開催。GスピリッツVol.65は、まもなく脱稿するので、そこからは27日のイベントに集中できそうだ。これは今までにない濃いシンポジウムになりそうだぞ。お楽しみに!

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅