ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

津山のプロレス (3)

まさか津山のプロレスを(3)まで書くことになろうとは思わなかった。でも、この機会にどうしても紹介しておきたいことが出てきたので、あと1回、岡山の山奥の話にお付き合い願いたい。岡山県は古来、岡山市や倉敷市等のある南東部の備前と、西半分の備中と、そして県北東の吉備高原から中国山地のある美作(みまさか)の3つの旧国=地域に分類されている。津山のあるのは山深い美作である。剣豪・宮本武蔵の生家があるのは兵庫県との県境をなす山間部…現・美作市宮本で、国際プロレスが何度も興行を打った湯郷町文化センターに近い。今回、津山の⑶を書く最大の理由は岡山市在住の梶谷晴彦氏が「津山ではないですが、美作へプロレスを観に行ったのはこれです」と送っていただいた野外試合の写真。それは山深い野外で行われた新日本の興行(1979年7月29日 サマー・ファイト・シリーズ第30戦=岡山県加茂町上原グラウンド)の写真であった。

山に囲まれた加茂町の野外会場(撮影:梶谷晴彦氏)。

私は最初、それが現・美作市の近くかと思ったら、さにあらず…。その当時の加茂町は苫田郡で、駅でいうなら因美線の「美作加茂」。2005年の市町村併合により加茂町は津山市に編入されている。つまり加茂町は現在の津山市なのだ。だから⑶を書くことにしたわけ。津山市の中心から加茂町へは北へ19kmと近い。鳥取へ向かう県道6号沿いにあって中国山地がグンと迫っている。現にそのシリーズの前日(7月28日)は鳥取市民体育館で、一行は中国山地を越えて加茂町にやって来たのだ。私は2019年12月に加茂町山下(美作加茂駅から2つ先の美作河合駅)にある県下最大級にて難攻不落の矢筈城(標高765m)に登った。ここは出雲の尼子氏側の草刈氏が守った山城で宇喜多氏や羽柴秀吉が攻めても落ちなかった堅城。標高差426mあり、私の中で五指に入る長くてハードな山行だった。下山後に加茂町内の「百々温泉めぐみ荘」という施設に立ち寄った(とてもいい湯でした。タオルもゲット)。ここは梶谷氏が観戦した加茂町のグラウンドと目と鼻の先だったということも今回わかった。

加茂町にある急峻の矢筈城の前衛峰。

余談だが、美作加茂駅の2つ津山寄りに「美作滝尾」という駅がある。2004年11月、近くの医王山城へ登る前に味のあるその趣の駅舎に寄ってみた。すると、そこは『男はつらいよ』の寅さんのシリーズ最終作冒頭のロケ地として使われた国登録有形文化財の駅舎だった。寅さんのシリーズでは高梁市や真庭市など岡山県下で多くロケをしている。また津山城下の城東町並保存地区(重要伝統的建物群)でも寅さんのロケが行われていた。それだけ美作と北部の備中には山田洋二監督と渥美清が愛した日本の原風景が残っているということなのだ。先日、テレビで映画『八つ墓村』の再放送を観たけど、横溝正史が描いたこの話の舞台も岡山県の山中…伯備線新見駅からバスで1時間の真庭郡の山中にある村という設定だった。ストーリーは戦国期、尼子氏の残党8人を村人がだまし討ちするという陰惨な言い伝えがベースになっていた。美作・備中の深山幽谷は歴史的にも不思議なドラマが多いということである。

寅さん最終話のロケになった美作滝尾駅。

さて、津山市総合体育館でいただいた「津山市の体育施設」というパンフを見ると、加茂町にスポーツセンターという総合運動公園があって、体育館(中原493-3)が出来たのが83年4月15日、ソフトボール場(中原478-2)の完成が80年3月31日、武道館(桑原280)の完成が81年12月15日、そして総合グラウンド(中原485-1)が91年6月21日とある。つまり新日本が興行を打った79年夏にはこれらは完成していなかったことになる。現在、上原という住所はなく、恐らく総合グラウンドと同じ場所に野球場があったのだろう。パンフには「加茂町民グランド(上原グランド)」となっており、梶谷氏が購入したチケットの裏には「加茂町合併25周年」と記されていた(同町は54年に新加茂町、上加茂村と合併している)。同プロレス大会はそれを記念した町おこし事業の一環であると推測される。脱線するが、パンフの日程の記述と新聞が試合結果として掲載する会場名が違うという点に気づいた。この加茂大会の3日前、私の住む横浜市の綱島に新日本がやってきたことはかなり以前にこのコラムで書いた。新聞では「綱島駅西口広場」と記されてあったが、このシリーズのパンフには「綱島駅西口旅館街中央広場特設リング」と記されていた。かつて綱島温泉宿がその辺り密集して、広場があったらしい。45年目にして初めて正式な会場名を知った…。82年3月にそこにイトーヨーカ堂が建ったが、今年の8月で閉館されるようだ。

ダッグアウト上で観戦するシーン・リーガン(撮影:梶谷晴彦氏)。

79年の『サマー・ファイト・シリーズ』は大宮で開幕して、新潟、北陸から四日市へ出てUターンし、東北から北海道を周って紋別で折り返して南下…西は鳥取まで行って、そこから再びUターンするというハードな行程であった。後半特別参加して最終戦の品川プリンスホテル・ゴールドホール(8月2日)で猪木のNWF王座の挑戦する予定のローラン・ボックが7月24日に交通事故のために来日中止となった。ボックは本来なら7月27日の堺市金岡体育館からの特別参加だったから、事故がなければこの加茂町の草野球場に来ていたことになる。それでNWFへの挑戦者は急遽、坂口と発表された。でも、それは暫定的なものであって、最終戦のワンマッチのためにタイガー・ジェット・シンが呼ばれることとなる。私としては猪木vs坂口のNWF戦が観たかった。加茂町のメインは猪木&藤波&長州vsレロイ・ブラウン&トニー・ロコ&マサ斎藤の6人タッグ。セミは坂口vsウイリエム・ルスカ。その下がシーン・リーガンvsストロング小林、ジョージ・スティールvs山本小鉄…第3試合はウルトラマンvs平田淳二であった。

ウルトラマン登場に沸く(撮影:梶谷晴彦氏)。
豆タンクvsゴリラ男(撮影:梶谷晴彦氏)>

この日は夏休みの日曜日で試合開始は17時と早い。梶谷氏は試合前に車で例の津山プラザホテルへ寄って、そこから会場へ向かった。「山間の野球場で1塁側と3塁側のダッグアウトが控室で、選手たちがダッグアウトの上から観戦していましたよ。グラウンドが土なので、花道にはブルーシートが敷かれていました。ウルトラマンはサイン会をしていましたし、小鉄さんがジョージ・スティールの剛毛を搔きむしってお客が大受けしていました。地方にしてはなかなかいいカードでしたよ。セミまで辛うじて明るかったですが、メインの時は真っ暗でした」と梶谷氏。写真には近くの丘の墓地からタダ見する人の姿も…。ウルトラマンが来て、ゴリラ男が暴れて、五輪柔道王者と柔道日本一が対戦し、トリにアントニオ猪木が登場する…夏休みの子供や田舎のおじさんたちが楽しめたカードだったように思う。古き良き昭和の田舎での野天プロレス…こういう興行の積み重ねが日本のプロレスの底辺を支えていたことを忘れないようにしたい。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅