ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第584回】56年目に真実へ最接近

 平成の終わりの頃だったか、俄かに「刀剣ブーム」というものが巻き起こった。漫画かゲームか…火付け役が何なのか、私はよく知らないが、オヤジたちの楽しみだったはずの日本刀=刀剣・槍に若者層が飛びついたのだ。日本古来の「たたら製法」によって鍛えられた玉鋼を使った日本刀は武士の魂と言われる。それは武器ではあるものの、斬れと、強度、美しさを兼ね備えた世界に類例のない精巧なアイテムである。人(武将)は散っても刀剣は何百年経っても昔のままの姿を留め、現代では美術品として世界中のファンを心酔させている。国宝や重要文化財に指定されている名刀の数々は日本中の美術館や博物館、神社に所蔵されており、ブームの先端を行く「刀剣女子」たちの垂涎の的となる。本物の名刀が持てないとなれば、レプレカでもいいからと、名刀のレプリカがよく売れているのだとか…。

“天下の五刀”と呼ばれているのが「童子切安綱」、「三日月宗近」、「大典太光世」、「数珠丸恒次」、「鬼丸国綱」。これ以外にも戦災から逃れた名刀は日本各地に残る。その中の一つ「義元左文字」(宗三左文字)は三好宗三から武田信虎(信玄の父)、今川義元、織田信長、豊臣秀吉・秀頼親子、徳川家康へと渡り、最終的に信長を祀る建勲神社に納められた(大火で焼失して記録をもとに焼き直して保管されている)。鎌倉期の作「骨喰藤四郎」は最初、源頼朝が所持していたとも言われ、その後に足利尊氏から時代を経て“梟雄”松永久秀へ移り、さらに大友宗麟を通じて豊臣秀吉へ献上され、大阪の陣で徳川家康へと渡り、最後は豊国神社に奉納された。かなり前置きが長くなったけれども、このように名刀が名将から名将の手に移って行ったように、プロレスの価値あるタイトルのチャンピオンベルトも名選手から名王者の腰へ移動して行った。名刀と名チャンピオンベルトには、そうした共通点がある。同じプロレスアイテムでも、一個人が被るマスクと、多くの名選手の腰を知り、多くの汗を吸ったベルトの違いはそこにある。また、チャンピオンベルトは団体・プロモーションの旗印・金看板であり、そこのプロモーターの戦略が内包されている。チャンピオンベルトは、その時代その時代を映し出す鑑とも言える。そこから時代の表と裏を読み取る作業はかなりの根気が必要となるが、実に楽しい。

さて、今週の土曜日は、いよいよ『第2回チャンピオンベルト・カーニバル』。ここに登場するベルトはレプレカではなく、もちろん実使用の本物。今回登場するベルトは3本。UWA世界ヘビー級、WWA世界ジュニアライトヘビー級、そしてUSヘビー級のチャンピオンベルトである。本来ならばGスピリッツで掲載すべきネタをここで大放出しようというわけ。だから、中身はかなりアカデミックで、新発見だらけのプレゼンとなる(そう言い切っておきます)。

今回のイベントの露払いはUWA世界ヘビー級のベルト。77年6月の初代王者ルー・テーズから84年6月の第12代のドス・カラスまでの7年間はイグナシオ・キンタナ製の有名なアルミニューム製プレートのベルトが使われている。その間、UWAの帝王カネックを軸にしてシン、猪木、長州、藤波ら新日本絡みの選手が締めていることで身近さを感じるタイトルだ。ただ、その7年間で4~5本の同王座のベルトが確認できる。それは一体なぜなのか。実は猪木の王者時代、長州王者時代に不可思議なことが起きる…。そして今回登場するベルトが第〇号なのかもを検証していきたい。そして続く太刀持ちとして登場するのが1996年夏に新日本でジュニア8冠の1本として扱われるWWA世界ジュニアライトヘビー級のベルト。ここでは知られざる歴代王者たちの変遷はもちろんだが、WWAの成り立ちと、私だけが知る日本マットとの重要なファーストコンタクトを語りたいと思う。

「ザ・ヒストリー・オブ・ザ・チャンピオンズ」の記事。

さて、今回のイベントの横綱として登場するのが東京プロレスでアントニオ猪木がジョニー・バレンタインから獲得したUSヘビー級のチャンピオンベルト。プロレスラー猪木が手にした初めてのシングルタイトル…それも日本における初戴冠という歴史的なベルトであることは今更、言うまでもあるまい。さて、このベルトだが、以前にも触れたように2001年11月23日号ゴング増刊『ザ・ヒストリー・オブ・ザ・チャンピオンズ』で小佐野景浩氏が執筆した記事が定説とされている。1953年9月12日にフレッド・コーラーがプロモートするシカゴでバーン・ガニアが獲得したUSヘビー級選手権がルーツであり、5年後にコーラーの番頭格だったジム・バーネットが独立し、共同経営者のジョニー・ドイルと組んでデトロイト地区へそのUSベルトが持ち去った。そして64年のUS王者バレンタインは翌年ザ・シークに敗れるまで保持していたUSベルトを個人所有とし、66年の東プロに持ち込んだという説である(ここからシークは同地区のプロモート権をバーネットから買い取り、新USベルトを作る)。タイトルのルーツとしては53年にシカゴで誕生した当時、NWA世界ヘビー級王座に準ずる全米N0.2のタイトルだった…それがこの21年間、定説となってきた。

ただ私はこのベルトをジーっと観察しながら、長年不思議に思っていた。有名なガニアやウイルバー・スナイダーの締めるUSヘビー級ベルトには左右に星条旗があるのに、これにはない。旗のあった型に不自然に宝石が埋め込まれている。それに関する説明が定説から抜け落ちている。バレンタインが個人所有にした後に星条旗を外して宝石を埋め込んだ? わざわざそんなことする? 定説では左右にサイドプレートに刻まれた王座移動の記録だけを信じて、これはガニア発祥のUSヘビー級のベルトだと断じている節がある。その気持ちもわかるが、本当にそれでいいのか…。

1953年のUSヘビー級王者バーン・ガニア。
サイドプレートに刻まれたガニア戴冠の記録。

疑り深い私は、このベルトは東京プロレスが作ったものではないかと思った。流智美氏もその説を唱えるレポートを何処かで書いていた。ただし、私の場合は左右のサイドプレートだけが本物で、中央プレート(バックル部分)が日本製なのではないかと疑った。サイドプレートに刻まれた文字は海外にしかない書体に見えた。それにこんな正確な記録を当時の日本人が知るわけがない。気になったのは、シンプルな感じの中央プレート。左右と中央のプレートでは材質が違うし、数十年経っているにも関わらず、あまりに真新しく見えるからだ。なぜ、そこまで疑うのか…それはこのベルトを巻いたバレンタインの写真は東プロ来日時のものだけで、アメリカの写真資料にこのベルト姿が今まで一度も見つかっていないからだった。だが、その疑いは、猪木さんや今はなき東京プロレス関係者に対してとても失礼なものだったと私は深く反省している。何と、最近のアメリカの史料からこのベルトを巻いたバレンタインの写真が出て来たのだ!これは56年目の大発見だと思う。

バレンタインが米国で締めた証拠写真!

どうですか。でも、これだけで真実に近づいたわけではない。星条旗の無いこのベルトは何処の何のタイトルなのだろうかという疑問が大きく浮かび上がる。そして『ザ・ヒストリー・オブ・ザ・チャンピオンズ』の発行から21年経った今回の研究で、定説を完全に崩すことができた。このUSの同型ベルトは何と3本も実在したのだ。それを今回のイベントで証明してみせます。プロフェッサー小泉悦次氏には随所で当時の米マットの時代背景と政治的な面を分かり易く解説してもらおうと思っている。そして今回、私は一つの“結論”に辿り着く。多少なりの推論は入るものの、「誰がこのベルトを造らせたのか」、「なぜ星条旗がないのか」、「何と言う名称のタイトルなのか」、「何処の地区でどのプロモーターが使ったものなのか」…それらをすべて明らかにし、より真実に近づきたい…今回報告する新説を真説にしたいと思う(ウィキペディアも書き換えないといけなくなるな)。今日書けるのはここまで…。アントニオ猪木のタイトル歴のリアルなルーツを知りたい方は是非、闘道館に来ていただきたい。ノートを持参で…。その全貌を理解していただいた上で、楽しいベルトとの撮影会に臨んでほしいと思う。それでは土曜日、巣鴨でお待ちしています。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅