ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第614回】嗚呼、懐かしの闘牛場(1)

 

 今春の四国巡礼は徳島県1番札所から高知県36番札所までで、息子は飛行機で先に帰京した。私は一人、車で四万十市、宿毛市を通って愛媛県の宇和島に入る。ここまでのロードは大自然が残っていて好きだ。宇和島も好きな街である。何しろ、宇和海で育った海の幸、真鯛が美味い。チェックインする前に久しぶりに懐かしい場所へ行った。あれから何度も宇和島に来ているけど、ここへ来るのはあれ以来だ。宇和島城ではなく、宇和島市営闘牛場である。「あれ以来」とは1981年5月31日、新日本プロレス『第4回MSGシリーズ』第22戦…別冊ゴング『オラが町にプロレスがやってきた』の取材だ。ここは私自身がベストチョイスした場所である。実に42年ぶりの再訪だ。

別冊ゴング『オラが町に…』の第4回は宇和島市闘牛場。

闘牛場は町を見下ろす標高95mの天満山にある。場内には簡単には入れた。5月3日の「5月場所」へ向けて場内では有志の方たちが設営作業をしていた。いやあ、42年前とほとんど何も変わっていない。こういう円形競技場に入ると私は異様に興奮する。前世が牛だからではない。メヒコを思い出すからだ。ご存知エル・トレオを始め、プラサ・デ・トロス・メヒコ(世界最大)、エル・コルティホ、ヌエボ・プログレッソ(グアダラハラ)、モヌメンタル・モンテレイ、サン・マテオ(チルパンシンゴ)といった主要なプラサ・デ・トロス(闘牛場)を観て来たから血が騒ぐのだ。「円形」で燃えるのは、客の熱が均等に中心に集中するからか、戦うものにとっては逃げ場がなくなって「殺るしかなくなる」からか…。長方形や正方形、オーバルよりも格闘会場は丸に限る。

市内の天満山の公園の一角にある闘牛場。
日本もメヒコも闘牛場は円形。雰囲気は最高。

現地のポスターか何かを見て知ったのであろう。「日本の闘牛はトロ(牛)とマタドール(闘牛士)の決闘ではなく、牛と牛のスモウなんだな」と言っていたのはミル・マスカラスだ。72年8月4日、徳之島の亀津闘牛場でマスカラスはミツ・ヒライとエル・ソリタリオは吉村と戦った。これが日本の闘牛場でメキシコ人が試合をした最初のケース(メインは馬場&坂口vsモンゴルズ)。荒波を乗り越えての島から島への移動は過酷を極めたという。マスカラスもお食事用マスクで吐いたとか…。

マスカラスもソリも苦労して徳之島へ。

この亀津闘牛場では81年11月22日にカネックとスペル・マキナも出場していて、猪木&藤波と戦っている。実はこの大会、前年3月に予定されていたのが雨で中止になり、同年10月は台風接近で再び中止に。そこで81年の『第2回MSGタッグリーグ戦』の北九州若松大会を中止して出来た1日、そこに強引に徳之島を捻じ込んだのである。どちらの興行も熊本の大石敏雄氏がプロモーターだったから可能だったとはいえ、徳之島の前日は三重県の松阪市総合体育館だった。そのため名古屋空港から福岡へ飛び、さらに鹿児島空港へ飛び、そこから徳之島の飛ぶという大強行軍を敢行したのだ。松阪牛から徳之島の闘牛への大ジャンプ。飛行機嫌いのタイガーマスクにとっては地獄だったであろう。小林照幸氏著の『闘牛』の舞台でもあるこの闘牛場では75年1月17日に全日本も興行を打っている。メインは馬場&デストロイヤー&アントン・ヘーシンクvsカリプス・ハリケーン&レッド・バスチェン&ジム・デュラン。セミは鶴田vsボブ・バックランド。ブルドッグ(ボブ・ブラウン)はいたがブルはいなかった。小林氏によると徳之島町の役場には馬場、鶴田、デストが表敬訪問した時の写真が残っているとか。

迫力ある闘牛のポスター。

 日本の闘牛場は岩手県の久慈市(旧山形村)の「平庭闘牛場」が北限である。新潟県の長岡市と小千谷市の闘牛は無形民俗文化財で「山古志闘牛場」、「虫亀闘牛場」、「種苧原闘牛場」などがあるとか。島根県隠岐の島は流罪となった後鳥羽上皇を慰めるために島民が開催したという最古の闘牛で、一夜嶽神社牛突き場と「モーモードーム」他がある。前述の徳之島は闘牛がとても盛んで、亀津にはメイン会場の屋根つきの「なくさみ館」と再整備された野外の「花徳闘牛場」、さらに天城町の「あまぎ自然と伝統文化館」という屋内会場も出来たという。沖縄本島にはかつて13箇所も闘牛場があったらしいが、次々に閉鎖が続き、現在は「うるま市石川多目的ドーム」がメイン会場となっている。旧具志川市(2005年にうるま市に吸収合併される)の安慶名グスクの脇にある安慶名闘牛場はもう使ってないのか…。かつて私もここに行ったことがある。円形すり鉢の味のある闘牛場だ。新日本の発表は具志川市闘牛場だが、安慶名で間違いないだろう、79年11月17日、『闘魂シリーズ』、ここで興行が打っている。メインは猪木&星野vsシン&グレッグ・バレンタイン、セミが藤波vsマサ斎藤。他に坂口vsペドロ・モラレス、ジョニー・パワーズvsストロング小林、次回トークショー(5月7日)に来場する小林邦昭はニコリ・ボルコフと当てられてカナディアン・バックブリーカーでギブアップ負けしている。うーん、これだけ全国各地に日本式のプラサ・デ・トロスがあれば、闘魂シリーズではなく、闘牛場シリーズが出来そうだ。

エル・トレオも天井に丸い穴が…。

 後にメキシコでトレオやコルティホなど多くのプラサ・デ・トロスで試合することになる小林邦昭にとって、この安慶名闘牛場が最初の闘牛場ではなかった。72年夏の徳島県亀津に出ていた坂口、メキシコ遠征をしている北沢を除く新日本選手たち全員が78年5月28日、『第1回MSGシリーズ』第31戦の宇和島が初の闘牛場になるのだ。私の行った81年も日本ダービー当日で、それを見越して前日に松山入りする。そして午前中に宇和島に到着し周辺取材を終えてから一旦ホテルにチェックインして部屋のテレビでダービー観戦(カツトップエース優勝)。その後に会場へ行った。実はこの78年の宇和島もダービー当日。それも開始が午後3時だからレースの時間と重なる(サクラショウリ優勝…私は府中にいた)。それはともかく、この78年のメインは猪木&藤波vsアンドレ・ザ・ジャイアント&トニー・ガレア、セミがバックランドvs木戸。他に坂口vsバロン・シクルナ、長州vs上田、ボルコフvsチーフ・ジェイ・ストロンボー、ウイルエム・ルスカvs山本小鉄、荒川vs邦昭などが組まれていた。この宇和島大会は猪木vsバックランドの武道館の4日前の試合であった。

私が取材した81年の宇和島のカードはメインが猪木&ボブ・バックランド&長州vsスタン・ハンセン&ハルク・ホーガン&ボビー・ダンカン。セミが藤波vsサージャント・スローター。他にダスティ・ローデスvs木戸、タイガー・ジェット・シンvsクリス・アダムスが組まれていた。単なるローカルのハウスショーとはいえ、すげーっ!メンバーである。78年の宇和島よりこっちの方がいいメンバーだ。それにしてもバックランドは闘牛場に縁があるようだ。当時、営業部長だった大塚直樹氏に聞いてみると、「宇和島は愛媛新聞さんの主催名義でやった自主興行です。日プロのリングアナだった高知の小松敏男さんにお手伝いいただいています。愛媛県下はすべて同条件でしたよ」とのこと。

闘牛弁当は牛肉の弁当なのか?

ちなみに大塚さんの去った84年6月2日にも宇和島の闘牛場で新日本は試合をしている。『84IWGP』の第21戦だ(シンホリルドルフの勝ったダービー翌週)。メインは猪木&坂口&藤波vsアンドレ&アドリアン・アドニス&ビッグ・ジョン・クイン、セミがマサ斎藤vsマスクド・スーパースター、他は長州&浜口vs藤原&木戸、ディック・マードックvsオットー・ワンツ、ケン・パテラvs谷津。私的には81年のカードとメンバーの方がいいと思う。ちなみに81年にはメヒコだった邦昭は84年のこの宇和島で寺西と組んで星野&クロネコと戦っている。タイガーマスクが去り、キッドとコブラが重視された時期だった。

それ以降、昭和の新日本では宇和島をやっていない。それどころか愛媛県下での試合が大激減していたのだ。85年末に松山市の愛媛県民会館をポツンと1回やっただけで、86~89年に至ってはゼロ。大塚さんの時代は松山だけでなく今治、西条、八幡浜、川之江など…年間2~4回、必ず愛媛で試合(自主興行)があったのに…。80年代後半からの愛媛は新日本の不毛の地であった。それならば私はいい時代に宇和島へ行ったということになる。もしかしたら全日本が強い土地なのか? それを調べる前に宇和島の鯛の刺身、兜揚げ、鯛めしを楽しむことにしよう。ではアスタ・ルエゴ。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅