ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第613回】2大レジェンドの恩返し

日本のレイとドミニクはお遍路の旅に。

「亡き妻の菩提を弔うため」…息子と一緒に四国お遍路の旅(第1弾)をしていたので、このコラムを二週分お休みさせてもらった。その間いろいろニュースが入って来た。その一つがグレート・ムタとレイ・ミステリオ(オスカル・グティエレス)のWWEの殿堂入りだ。どちらの受賞映像も見たけど、私的にはミステリオのほうが感慨深かった。実際にWWEに大貢献したのはミステリオの方である。リング上でコナンがミステリオを抱きしめたシーンはググッときた。それはAAAでの駆け出し時代からミステリオ・ジュニアと、エースのコナンの関係を見てこないとわからないかもしれない。

殿堂入りのスピーチと兄貴分コナンとの抱擁。©WWE

 私とミステリオが初めて会ったのは、ちょうど30年前…1993年4月30日、プラサ・デ・トロス・メヒコでの『トリプレマニア1』。観衆は6万人超。メインはコナンvsシエン・カラスの敗者引退マッチ。控室前でミステリオと会う。その時、オスカルは18歳。笑顔の可愛い礼儀の正しい少年だった。とはいえ、すでにキャリアは4年…リング上ではスペル・ニーニョ(天才少年)の異名のごとく誰にも真似できないような最上級の空中殺法を披露した。組んだのは期待のエル・ボラドール&ミステリオッソで、対戦相手はロス・ディストゥルクトーレス(トニー・アルセ&ブルカノ&ロコ・バレンテ)。「この子は特別だ。凄すぎる」。私はミステリオの並外れた才能を見抜いた。同じように彼の才能を高く買っていたのがアントニオ・ペーニャ代表とエースのコナンだった。その後、ゴングは私の指示でミステリオを売った。彼もゴングに協力的で、貴重な自身の成長記録を映し続けて来たことをよく知っている。

30年前、『トリプレマニア1』でのミステリオ。

 世界戦略を旗印に米国進出を繰り返すペーニャの野望と米国メジャーに身売りを目論むコナンが衝突し、コナンは弟分のミスリテオを連れてECW、WCWに走った。その直前に初来日したミステリオは「ここまで育ててくれたペーニャには申し訳ない。いつの日にか彼に恩返ししたい」と私に語った。私は「ちゃんとペーニャに挨拶しておいたほうがいいよ」とアドバイスすると、彼は「ウン、そうするよ。それが恩人への礼儀だと思う」と頷いた。ちなみに私の息子もミステリオのファンで、チビの時からオスカルに可愛がってもらった(和製ドミニクか…)。ミステリオは96年のWCWでマスクを取られる(vsケビン・ナッシュ&スコット・ホール)。“日本人もメキシコ人も素顔を出さないとアメリカじゃ意味がない”と、マスク文化に理解の無かったWCWはシコシス、フービー、カズ・ハヤシらのマスクを取らせた(もったいない話である…)。それと違って、2002年からのWWF(WWE)ではスパイダーマンブームに便乗して再びマスクを被ることになる。クルーザー級止まりだったWCWと違って、ビンスはミステリオやエディをヘビー級扱いし、世界の頂点に立たせた。メキシコだけでなくアメリカ、日本…国や人種を超越し、万人に愛されるオスカルの性格、態度、笑顔、そして抜きん出た驚異的な才能…誰に似ているといわれれば、大谷くんだろう。

96年7月、私の息子はミニ・ミステリオに。

 2006年9月、私はメキシコにいた。CMLLのアニベルサリオとWWEメキシコシティ進出興行を取材するためだった。その頃、週刊ゴングの日本スポーツ出版社は経営危機にあった…それを知ったマスカラスは私にこう言った。「ゴングが長年してくれた恩は忘れていない。トマスの望みがあれば、私はどんな取材でも協力するよ」と。そこで私は思い切ってこう頼んだ。「レイ・ミステリオが明後日のパラシオで試合をするためにメキシコシティに来ているんだけど、明日彼と会って対談をしてほしいんだけど…。ミステリオに連絡するので、彼のホテルに一緒に行くというのは…」。きっと駄目だろうと思った。私には苦い経験があったからだ。80年夏、全日本に来日中のマスカラスと新日本に来ていたWWF王者のボブ・バックランドを会わせて表紙と巻頭グラビアにしようという竹内さんからの指令があって、途中までは上手く行っていたけど、結局未遂のまま水泡と帰した幻企画があった(これ、『あの話、書かせてもらいます』ってムックにも書いたことあるけど、加筆してさらに包み隠さず再現します)。

80年8月24日、後楽園ホールでマスカラス兄弟は鶴田&プリンス・トンガと対戦。同日、新日本は田園コロシアムで猪木&バックランドが初タッグ…その夜に京王プラサホテルで二人を会わせようという手筈だ。私は試合前にマスカラスに趣旨を伝え、馬場元子さんの許可も得た。「清水君、あの二人を連れ出すのはいいけど、ちゃんとホテルに送り届けてね」。今から思うと、ガイジン引き抜き戦争前夜は、ゆる~い対応であった。「新日本側の選手となんて、絶対駄目!」じゃなかったのだ。後楽園は私一人の担当で、田コロは竹内さんとウォーリー。試合後、私はマスカラス兄弟をスカGに乗せて夜の新宿へ向かう。するとマスカラスは突然、「何で俺がボブのいるホテルに行かなければならないんだ」と言い出し、駄々を捏ね出す。仕方なく出来たばっかりの新宿プリンスホテルの最上階ラウンジで待機することに。携帯があれば竹内さんやウォーリーに連絡も付くけど、80年にそんな近代兵器はない。私はラウンジの公衆電話から京プラのロビーに連絡して「その周辺に竹内か山口という人がいませんか。いれば話がしたいのですけど」と何度も連絡した。2時間くらい待ってやっとウォーリーと連絡が取れて、彼がラウンジにやってきたが、マスカラスは怒って「もう帰る」と言い出す。それでこの対談企画は失敗に終わった(でも、帰りの車の中のマスカラスはほろ酔い気分で上機嫌。ちなみに13度来日のマスカラスにとってこれが初の新宿…。赤坂や銀座、品川と違う不夜城に興奮のご様子だった)。

その時の「何で俺がボブのいるホテルに!」は私のトラウマになっていた。相手がニューヨークのチャンピオンだろうが「俺のほうが格上」…76年夏に全日本で呉越同舟した時のままのボーイ扱いなのだ。だからこの2006年のメヒコでも「何で俺がミステリオのホテルに!」ってなるだろうと思った。ところが「ああいいよ。私の車でトマスをピックアップして、そのままミステリオのいるホテルに行こう」だったのだ。エエエッ!出来るじゃないか…私は小躍りした。翌日、行きの車の中でマスカラスはこう言った。「私の娘たちもミステリオのファンなんだよ。妻や娘たちは私の知らない間にWWEのテレビを観て彼のファンになっていたんだ(笑)。私が“明日、トマスと一緒にレイに会いに行くって娘たちに言ったら、いいな~パパ!と言っていたよ” (笑)」。ホテルの地下駐車場からミステリオの部屋へ。オスカルは笑顔で迎えてくれた。対談中、マスカラスは決して偉ぶるわけでもなく、ミステリオもWWFの大先輩を立てて、70年代のニューヨークの質問をして終始和やかムード。途中、この対談を嗅ぎつけた現地の週刊誌たちが部屋をノックしてきたが、「これはゴングの独占企画だから」とミステリオが追い返してくれた。実はロビー付近にWWEロードマネージャーをしていたリッキー・スティムボートがいたので、マスカラスと再会させようかと思ったが、ここは他社の動きも見て、欲張らずにスルーすることにした。帰りの車でも「両親のしつけがいいんだろう、レイは性格のいい子だ。言葉遣いも接し方も欠点がない」とやたら褒めていた(子と言っても、この時、33歳)。このマスカラスvsミステリオ対談は、「我ながらよくやった」と自分で自分を褒めた仕事の一つ…それがゴングでの最後のいい思い出になった。

会心作、マスカラスとミステリオ対談。

 2011年10月、パラシオでの『スマックダウン』に登場したマスカラスは、翌年WWEの殿堂入りを果たした。マスクマンとして初のMSG登場から40年の歳月が経過していた。そして今回のミステリオの殿堂入り…めでたしである。実はミステリオは15年2月に一度契約満了でWWEを退団し、AAAに電撃復帰している。WWEより早く、AAAで彼はすでに殿堂入りしていた。「あの時にトマスに言われて、いつかペーニャに恩返ししようと思っていたけど、先に逝かれてしまった(06年10月)。でも、このAAA復帰を一番喜んでくれているのは天国のペーニャだと思うよ」。16年10月27日、新宿ロフトワンで『ビバ・ラ・ルチャ30回記念』で世界のミステリオを呼べたことは、今更ながらやれて良かったなあ…と思うのである。オスカル、おめでとう。アリーバ、ミステリオ!

ビバラに世界のミステリオが来てくれました。

 そしてビバラ…も47回目。次回のゲストは小林邦昭&高杉正彦。また濃い話になりそうな予感がする。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅