ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第562回】ロシアか、ラシアか…

本門寺本堂での四十九日の法要。

 先週の土曜日は妻の四十九日でした。法要は池上本門寺での本堂にてアントニオ猪木がモデルになった仁王像に見守られるように執り行われました。埋葬は五重塔直下の清水家の墓所に…。今回、愛犬チェスターのお骨もそこから数十m離れたペット墓地に入ることに…。すべて力道山の墓地に近いので、私より一足先に力道山先生の守護となるべし!本堂では妻が極楽浄土へ行けるよう祈るとともに世界平和も祈願した。

納骨後に力道山の墓所へ兄夫婦と。

 ロシア軍のウクライナ侵攻で世界情勢は混沌としている。ゲラ=戦争が起こってしまった…何とも胸の痛い限りだ。ロシア(旧ソ連を含む)は、いつもヒールだった。今年97歳になる母が常々こう言っていた。「先の大戦(太平洋戦争)で日本がアメリカに降伏する6日前、約束(日ソ中立条約)を破って攻めて来たのよ。あれは絶対許せない」と。それで樺太の南半分と北方四島を持って行かれ、未だに返さないのだから…。

私の初海外渡航はアメリカからメキシコだったが、最初に見た“彼の地”は根室岬から見た貝殻島。あれは75年9月だったか…。岬の沖に1937年に日本が建設した灯台(壊れて点灯しない)がポツンと今も立っている。根室岬から僅か3.7kmという近さ。いや、国後・択捉・歯舞・色丹の四島は外国ではなく、我が国固有の領土である。しかし、ソ連が崩壊した後もロシアが実効支配を続けている。この根室半島から国際プロレスが崩壊した羅臼のある知床半島までの約100キロ近い海岸線、その東の対岸には国後島が延々と横たわっている。最も国後に近いのがトドワラとホッカイシマエビで有名な中標津町の野付半島。ここから国後まで16kmの距離だ。昨年5月、久しぶりにこの地を訪れる。対岸の国後の海岸線の家がポツポツと見えるではないか。「返せ!」の声は風に吹き飛ばされた…。

昨年5月、国後へ向けて叫ぶが…。

 ついでなので羅臼への玄関口となる中標津町の体育館(青少年体育センター)にも寄ってみた。この中標津に最初に目を付けたのは国際プロレスだった。1972年5月19日、『ワールド選抜シリーズ』第9戦。前日が網走で、翌日が根室で最終戦というコース。メインはストロング小林&サンダー杉山vsモンスター・ロシモフ&イワン・バイデン、セミがラッシャー木村vsジョージ・ゴーディエンコ、寺西vsティト・コパ。(なかなかいい顔ぶれだね)。

 

次に中標津に来たのが全日本。73年8月17日、『ワールド・チャンピオン・シリーズ』第10戦。前日が釧路で、翌日が美幌というコース。メインは馬場&サムソン・クツワダvsハーリー・レイス&ニック・コザック。セミがデストロイヤーvsハンク・ジェームス、その下が大木金太郎vsボボ・ブラジル、サンダー杉山vsダン・ミラー。杉山は2年連続で中標津に来たことになる。ちなみに“アカプルコの青い翼”リスマルクは84年1月13日に極寒のここ中標津でオジロワシのように飛翔した(vs三沢光晴)。

中標津の体育館。真っ昼間なのに寒かった…。

新日本プロレスは全日本が来た4ヵ月後の73年11月17日、『闘魂シリーズ第2弾』第12戦で中標津を初使用。前日が札幌で、翌日が岩見沢という滅茶苦茶のハードな移動。メインは坂口征二&木戸修vsタイガー・ジェット・シン&レイ・グレーン、セミが猪木vsビル・ホワイト。他はジャック・ルージョvs柴田勝久、永源遥vsダビッド・モーガン。「中標津は釧路の垂水勘兵衛さんの部下の方がやられた売り興行でした」と大塚直樹さんは言う。20キロ弱といえば、車ありきの北海道では「すぐソコだべ」という距離。間に根室海峡が無ければ、国後から中標津までプロレス観戦に来てもおかしくない距離感である。

 話が中標津へ寄り道してしまった。本題はロシア。冷戦下の米マット、ロシア人キャラはヒールの代名詞だった。その最たるものが雷帝イワン・コロフ(発音はイワンではなくアイヴァン)。71年にブルーノ・サンマルチノをWWWF王座から引きずり下ろした男だ。プロレスラーにとってキャラは大事。たとえ別の国の人間に変身しても、当たればいいのだ。それがプロレスのワンダーワールドだ。正体は67年9月に日本プロレスに来日したカナダ人のレッド・マッナティ。ビル・ワットやターザン・タイラーの陰にいて、目立たぬ存在だったが、ロシア人に転身して成功した。

イワン・コロフとニキタ・コロフ。

他にイワン・カメロフ、クリス・マルコフ、ニコリ・ボルコフ(ベポ・モンゴルからの転身)など偽ロシア人キャラはいろいろ出現した。鳴り物入りで日本に来たイワン・コロフの愛弟子のニキタ・コロフとクラッシャー・クルスチェフのザ・ラシアンズは絵になった。どっちもミネアポリス生まれのアメリカ人。当時、ゴングがプッシュしていたこともあって86年正月に全日本に初来日した。

 年頭の後楽園大会の試合後の控室、プッシュの張本人であるウォーリー山口くんが「馬場さん、初来日のラシアンズはどうでしたか?」と質問する。すると馬場さんはこう答えた。

「ラシアンズ? お前はロシアのことをラシアと言うのか。ラシアンズじゃなくて、ロシアンズだろ」って、皮肉るような感じで言った。このシーンが滑稽で忘れられない。

 メキシコにはロシアキャラは少ない。あまり関係のない国という感じか。でもキャラクターの宝庫だけあって、いることはいる。コマンド・ルソー…直訳すると「ロシアの戦士」。やはりルードだ。92年1月のSWSに初来日してウルティモ・ドラゴンと対戦しているけど、ほとんどの人は記憶にないだろう。本名はフアン・カルロス・トーレス・ナバーロ。ハリスコ州ラゴス・デ・モレノ出身で、同郷のシエン・カラスのパシリをしていた男だった(後にマスクマンのティタンに変身)。CMLLでは中堅以下だった。

 89年になったら本物のロシア人がやって来た。サルマン・ハシミコフ、ビクトル・ザンギエフ、ウラジミール・ベルコビッチ、ワッハ・エブロエフ、チムール・ザラソフ、ハビーリ・ビクタシェフ、エフゲーニ・アルチューヒン、アンドレ・スルサエフ…。長年、偽者に慣らされてきた身にとって、本物はアマチュアの域が抜けきれず、プロとしてはつまらない存在だった。

 それでも初の東京ドームでやった猪木vsショータ・チョチョシビリは、アントニオ猪木に異種格闘技戦で初黒星を与えた。試合内容はなかなか良かったと思う。ゴングはその試合をGWYS(ゴング・レスリング・イヤーズ・セレクション)のベストバウトに選出した。そのトロフィーと賞金を渡そうと、当時編集長だった私は猪木サイドにオファーとしたら、明日の夕方に渋谷のハチ公前に来てほしいとのこと。

現場へ行ったら何と「スポーツ平和党」の選挙演説の真っ最中で、猪木さんに「上がれ、上がれ」と促されて、マイクロバスの選挙カーの屋根に強引に乗せられた。小雨の中、ハチ公前広場は帰宅時間で人が溢れかえっていた。その大観衆の面前でチョチョシビリ戦のことを説明した上で授賞式をしたのである。その上、猪木さんから突然にマイクを渡されたので、私は「みなさん、アントニオ猪木とスポーツ平和党をよろしくお願いします!」なんて叫んでしまった(そう言うしかない。でも、あそこで喋れば、もう怖いものなしだ)。今、考えると、普通では決して出来ない経験をさせてもらったと感謝している(同行した新米カメラマンが雨中の撮影に失敗して写真がないのが残念!)。

また、ロシアから脱線してしまった。私の学生時代からの夢は、羅臼の町中からも遠望できる国後島の最高峰・爺々岳(ちゃちゃだけ)に登ること、真珠湾攻撃前に連合艦隊が集結した択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)を眺めることだった。このままでは、死ぬまでその夢は果たせそうにない。

「プーチンさん、ノー・マス・ゲラ」

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅