ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第561回】ブラックマン逝く

 コラムを一つ書き終わったと思ったら、そこに訃報が届く(これ、よくあるケース)。亡くなったのはブラックマン(本名アルバロ・メレンデス・サティバニェス)。これはスルーできない。第一報はクリスチャン・シメット弁護士からだった。亡くなったのは現地時間の28日夜のようだ。私は息子さんとメールをやりとりしていたので、昨年からアルバロの体調が悪くて入院しているのは知っていた。でも、まさかこんな急に…。

ホワイトマンとの白黒コンビ。

 アルバロとの思い出はいっぱいある。ゴングでブラックマンを取り上げたのは、78年だったか。最初はジョニー・ハッチ=茨城清志氏の撮ったブラックマン&ホワイトマンの写真をグラビアに載せたら、かなりの反響があった。調べていくうちに彼が回転トペを使うことを知る。私が79年1月にメキシコへ行く時に竹内(宏介)さんから8ミリのカメラを借りた。それは本場のマスカラスの動画と撮るためではなく、“メキシコマットで最速の男”ブラックマンの回転トペを撮影するためだった。

 2月3日、佐山さんと一緒にアレナ・アパトラコへ行って、そこで初めてブラックマンの試合を観る(感激)。初対面のアルバロは、とても優しいいい人だった。「アナタのその技を動画で撮りたい」と懇願。「OK、明日のトレオでね」。翌日、エル・トレオでブラックマンは約束通りに回転トペを披露し、私はそれを8ミリに収めた。上段ロープと中段ロープの間を目にも止まらぬ速さですり抜けてアタックする様は体操ならG難度の大技。それは帰国後の8ミリ大会(横浜開催のメキシカンフェスティバル)の目玉となった。

トペ・コン・ヒーロでUWA奪取。

 81年別冊ゴング5月号付録『未知のメキシコ殺法45』を作るために、技巧派として知られるアニバルの泊る京王プラザホテルへ行く。100冊近いメキシコ誌を持ち込んで、技の名称や使い手を聞き出すためだ。その時にアニバルがブラックマンのそれを見て迷わず言ったのが「スイシーダ・コン・ヒーロ」だった。ちなみにセントーン、ウラカン・ラナ、コルバタ、ティヘラ、トペ・アトミコ、タパティア、アンヘリート、ゴリー・スペシャル、トペ・デ・レベルサ、カベルナリアなどの技名が浸透していったのは、この技名鑑が発端だと思う。

私はその年9月に再びメキシコへ飛ぶ。同30日、パラシオでブラックマンvsブラック・テリーのUWA世界ライト級選手権にぶち当たる。それはブラックマンの68連続防衛レコードがストップする試合だった。この日は鉄柱とターンバックルを結ぶ金具から飛んで回転しながらアタックした。それを私が「スイシーダ・コン・ヒーロ」ではなく、「トペ・コン・ヒーロ」と間違えて書いてしまった(アニバルに聞いた時の「トペ・コン・ヒーロ」はボビー・リーの側転4/1捻りからの背面トペ)。その間違いがそのまま浸透して、後々他誌やテレビの実況、何処でも「トペ・コン・ヒーロ」と言われたり、書かれたりするようになってしまう。中には「トペ・コン」なんて縮めたら意味が通じなくなる呼び方もされるようになる。それを英訳すると「トップ・ウィズ」(何だ、そりゃ!)。

 この技を開発したブラックマンに訊ねると、「トペ・デ・モルタルか、トペ・モルタルなんだけど…」と、そう言っていたのに、いつからか彼自身も「トペ・コン・ヒーロ」と言うようになった。「トペ・コン・ヒーロ」…今やそれはプロレスファンの中で世界共通語に収まってしまったようだ。

 ブラックマンみたいに70キロ台の小さいライト級の選手は日本に来ることはあるまいと思っていたら、新日本がタイガーマスクの相手として82年に招聘した。間もなく50周年を迎える新日本だが、10周年の大田区大会(3月6日)にブラックマンは出場している。12日の後楽園ホールでのタイガーとのシングルはベルトこそ懸ってなかったが隠れた名勝負だった。「ブラックマンはグラウンドもしっかりしていてとてもいい選手でしたね。メキシカンの中では印象に残っています」(佐山さん)。それもそのはず、彼はシュートにも強い名伯楽ディアブロ・ベラスコの門下生である。ウルトラマンとは違う。

 その後、ユニバーサルにも数度来日したが、そこから久しく会う機会がなくなった。彼はデビューからラ・ガセラ、スパイダーマン、ブラックマン、セレスティアルと次々名前を変えたが、77年から9年間続けたブラックマンが生涯の代名詞となった(カト・クン・リーやケンドーも一緒)。

2013年9月15日、私の泊まるグアダラハラ市内のホテルにアルバロは息子と一緒にやってきた。全盛期は70キロ弱で、あれほどスピーディーに動いていたのに、100キロくらいに丸々と太り、松葉杖でやっと歩けるほど…。「膝の手術をするかもしれない。いろいろ数値が上がって身体の調子がよくないんだ」と嘆いていた。その後、アルベルト・ムニョス宅へ移動し、ブラックマンとホワイトマン30年ぶりの劇的な再会。そこから対談形式のインタビューをする。

ムニョス宅で30年ぶりの再会。

 帰国してGスピリッツVol.31と32でブラックマン&ホワイトマンのストーリーを書き上げた。その本を持って2015年9月23日、私は再びグアダラハラへ行く。そこでブラックマンに再会。そして完成した2冊を本人に手渡すと、「こんな形でたくさん取り上げてくれてありがとう。これは私の宝物だよ」と食い入るように見て、大事そうに持ち帰った。その時のアルバロは80キロくらいに減量していて、杖もなしでスタスタ歩いていた。「また会おう」と言ったけど、私にはこれが今生の別れのような気がしてならなかった。だから手を振り消えていく彼の姿を目に焼きつけた…。

やはりこれが最後の別れに…。

それから4年後、ムニョスは2019年12月14日に亡くなっている。ホワイトマンだったのはたったの1年。彼の場合は本名で素顔として戦った15年間が最も輝いていた(ナショナル王座3階級制覇とNWA世界ウェルター級王座獲得)。ホワイトマンになったのは蛇足のようだが、ブラックマンという良き後輩と過ごせた1年は、楽しかったようだ。それはアルバロの人柄の良さがそうさせたのだろうと思った。その人柄がフランシスコ・フローレス代表にも好かれたのだろう。3年間も長きにわたってUWAのベルトを持たせたのはアルバロ自身を信頼していたからに違いない。

 82年3月の「チャコのアタックインタビュー」は神宮外苑で撮影した。あの時、チャコが「そのマスクのデザインは何を意味しているのですか?」と質問すると、「これは売れなかったガセラやスパイダーマンの時代に流した涙を表しているんだ」と語ったのが印象的だった。さらに「なぜ口を閉じているのか。それは悪い過去を口外しないようにという意味だよ」。最初のブラックマンのマスクは目にもマヤ(網)が掛けられていた。でも、その網を取るとブラックマンは突然サクセスした。彼は澄んだようにとても綺麗な目をしている(居そうでなかなかいない)。それが最も際立ったあのマスクは名作と言っていいだろう。

チャコのアタックインタビュー。

 私の妻の悲報をアルバロの息子に送って「出来ればパパにそう伝えてくれ」と頼んだら、丁寧なお悔やみの言葉が返って来た。それが息子の言葉なのか、アルバロ本人の言葉なのか判別できなかったが、それでもありがたく受け取った。今度は私からも息子にお悔やみの言葉を送らなければならない…。あまりに悲し過ぎる。

 もし、時間があったらGスピのV0l.31と32を読み直して、ブラックマンの供養をしてあけてほしい。アルバロは、決して語気を荒げたり、人の悪口を言ったりしない、物静かで裏のない本当にいい奴なんだ、本当に…。

Mi mas sentido pesame,un abrazo 

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅