ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第607回】ベルト祭りの余韻(3)

 先週は第二の故郷・日高に5泊6日で里帰りして種牡馬の展示会を取材していた。毎日が天気だったのは超ラッキー。太平洋は群青色で、日高山脈は真っ白く、お馬さんたちは寒さにも負けず元気…久しぶりの冬の日高を満喫する。

 帰京したら、Aさんからこんな質問が届いていた。

「UWA世界ミドル級のチャンピオンベルトですが、スペル・アストロ以降のベルトから“ジュニアライトヘビー”と書かれたものがミドル級として使用されているのはなぜでしょうか」というもの。北海道でリセットしてGスピリッツの次号の執筆を向おうと思ったけど、ベルト祭りの余韻は未だに尾を引いているようだ。

 ご指摘のベルト…それはアストロからではなくグラン浜田からのものです。問題はすべて浜田に関わるので、順序だてて話を進めて行きたい。新日本の浜田広秋は1975年に永住覚悟で渡墨して76年5月に世界ミドル級王座を初戴冠する。79年2月の凱旋帰国直前にはジュニアライトヘビー級王座をセサール・バレンティーノから奪い、ご存知のように東京体育館でベビー・フェイス相手に初防衛をしている(防衛は1回のみ)。80年の帰国前にもライトヘビー級王座を栗栖正伸との決定戦に勝利して奪取し、UWA史上初の三階級を制覇。蔵前でベビーを相手に防衛戦をした(通算7度防衛)。81年春秋の凱旋時こそ丸腰だったが、82年の凱旋前、2月14日のエル・トレオで浜田はモンテレイ出身の世界王者セントゥリオン・ネグロから世界ミドル級王座を奪う。浜田にとってメキシコでのサクセスをアピールするためベルトは必要不可欠のアイテムだったのだ。セントゥリオンとのリンピオ同士のタイトルマッチは超異例で、浜田のごり押しぶりがよくわかる。その上、猪木と藤波が遠征してきていたため(vsブッチャー&アグアヨ)、浜田王座奪取の模様はテレ朝でもオンエアされた。これもテレ朝の栗山ディレクターへの強烈なプッシュがあったからだと聞く。

82年にミドル級2度目の戴冠も…。

 この時に浜田はセントゥリオンから赤いベルトを獲得した(後のエンジ色のベルトとは別物)。その赤ベルトを前王者に返却して新たに自分のベルトを作ろうとした…はずだ。4月21日の蔵前、『難民義援金募集チャリティ特別試合』でアグアヨとWWFライトヘビー級とのダブルタイトルマッチが組まれた(そもそも階級が違うWタイトル戦などあってはいけない)。それどころか、なんと浜田は大事なベルトをメキシコに忘れて帰国したのだ。当日、代用品として使われたベルトは坂口征二の北米ヘビー級のベルトだった。浜田はそれを隠すようにリングインし、勝利後も北米のベルトは出来るだけ見せないようにして掲げた。だから控室での2本ベルトによる勝利者撮影も誤魔化しながらのものだった。とんだ不祥事といえる。ちなみに2月14日から4月21日まで浜田は一度の防衛戦もしていない。自分用の新ベルトを作る時間はいくらでもあったので、やはり忘れてきたとみるべきだろう。

北米ヘビーのベルトを隠しながら二冠に。

浜田は日本からメキシコに戻っても防衛戦はしておらず、6月11日の敵地モンテレイでセントゥリオンに敗れて王座から転落している。ちなみに二冠のもう一つ、蔵前で獲得したWWFライトヘビー級王座のほうは、6月27日のトレオでアグアヨのリターンマッチを退けて初防衛。8月14日のピスタ・レボルシオンでエル・ファラオンを下してV2を達成するも、同月29日のトレオでアグアヨに敗れて王座から転落している。この時も、79年のUWAのジュニアライトヘビーの時も、80年のライトヘビーの時も、すべて帰国後にアグアヨに奪われている。

 83年5月22日、浜田はまたも日本への“帰り支度”をする。モンテレイでルイス・アリソナを破って三度目のミドル級王座を獲得したからだ。アリソナも同じリンピオだから、このタイトル挑戦も浜田の裏工作があったと思われる。6階級あるUWA世界王座の中でも、このミドル級タイトルだけがフランシスコ・フローレス代表の管理下になく、モンテレイのプロモーターをしていたレネ・グアハルドに管理が一任されていた。それ故にグアハルド本人を含む、フングラ・ネグラ、セントゥリオン・ネグロ、ルイス・アリソナらモンテレイ勢が歴代王者に名を連ねている。浜田が76年5月に初戴冠したのもこのタイトル(グアハルドの濃紺のキンタナ製を使い回し、5ヵ月間で通算6度防衛)。獲った相手も返した相手もグアハルド…つまり浜田の無理難題を聞いてくれる仲だった(だったら、アグアヨやベビー・フェイスばかりでなく一番世話になった初期のライバルでありプロモーターでもあるグアハルドを日本に一度連れてきてあげれば良かったのにと思う)。

76年のミドル級初戴冠ベルトは使い回し。

 83年、浜田はアリソナからミドル級タイトル3度目の獲得後、7月20日にポサリカでロボ・ルビオを相手に初防衛戦をしただけ。そしてひたすら帰国命令を待つ。やっと帰国したのはクーデターの煽りを食った10月の『闘魂シリーズ』。しかし、このシリーズに来日したメキシカンはセルヒオとグレコのオカマコンビだけで浜田の防衛戦は組まれなかった(セルヒオは十二指腸潰瘍で入院)。せっかくベルト(エンジ色のキンタナ製)を持ってきたのに肩透かしのシリーズだった。大恩のある新間氏も退社していた。タイガーマスクが去ってザ・コブラを売り出そうとする新日本にとって浜田を再プッシュする気はなかった。メキシコに戻った後も年内防衛はせず、次の防衛戦は84年元旦のトレオでのロボ・ルビオ戦。この後、浜田はアグアヨの持つWWFライトヘビー級王座にパチューカ、トレオ、トラスカラで3連続挑戦するも失敗。日本のように簡単に二冠にはさせてくれない。そんな折に新間氏から帰国命令が出る。新日本ではなく、UWFという新団体で、アグアヨだけでなく、ミショネロスやマノ・ネグラらのブッキングも頼まれた。浜田は帰国前にキンタナ製のベルトで3度目の防衛戦をしている。4月2日、プエブラでのカト・クン・リー戦である。

4月10日に帰国した浜田に手渡されたのが鉄板と黒革で造られた吉永プリンス製の新ベルトだった(キンタナ製は新間家へ…)。この新ベルトは浜田自身が新間氏におねだりしたものなのか、前年秋に発注していたものなのか、新間氏からのプレゼントだったのかよくわからない。ところがこのベルトにはとんでもないミスがあった。「MIDDLE WEIGHT」ではなく、「LIGHT HEAVY WEIGHT」と刻まれていたのだ。日本のプロレス関係者には「ミドル級」という感覚がない。「浜田だからライトヘビー級だろう」というような軽い感覚で造られてしまったのではないだろうか。4月17日の蔵前…2年前のデジャブのようなアグアヨとのダブルタイトルマッチ。ここで浜田は再び二冠になる。その腰に巻かれた新しいベルトを控室で見た私の目は点になった。「あららーっ、ウエイト表記が間違っているじゃん!」(Aさんのご質問にあった「ジュニアライトヘビー」ではなく、「ライトヘビー」です)。

誤表記の新ベルトで二冠に。どちらも吉永プリンス製。

無頓着な浜田は表記を直させずにメキシコに新ベルトを持ち帰る。ちなみに二冠にうちの1本のWWF王座は30日後の雨中のトレオでビジャノ3号に敗れて転落。問題のミドル級タイトルの方は、その後、全く防衛戦をせず、7月6日のティファナで地元のヒーロー、スペル・アストロに敗れて、“白銀の隕石弾”の腰にベルトが移った(この頃になると、同タイトルの管理はグアハルドからフローレスに移っている)。浜田にとってチャンピオンベルトとは帰国するための道具であって、主戦場のメキシコで自分を光らせるためのステータスシンボルではなかった。アストロの後は、エル・サタニコ、カチョーロ・メンドーサ、ソラール1号、バレンテ・フェルナンデス、クチージョらがチャンピオンになって、この日本製ベルトを使い回す。そして90年の浅井嘉浩の王者の時、彼はこれを嫌って現地で正しい表記の「MIDDLE WEIGHT」の新ベルトに造り直させ、ユニバ旗揚げに凱旋帰国している(NWA世界ミドルとライトヘビーも88年頃から同型ベルトを使用)。

説明が長くなってしまったけど、ご理解いただけでしょうか。浜田の82年と83~84年のキンタナ製ベルトによるミドル級防衛戦は僅か3度、日本でも使われなかったために雑誌等での露出が極めて少ない。一方、吉永プリンスの新ベルトはゴングのメキシコグラビアでも再三登場したため「アストロ以降…」と思われたのだろうと思う。それにしても新旧UWFにおいて唯一、タイトルマッチとして使われた吉永プリンス製のあのベルト…何処へ行っちゃったんだろうなあ。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅