ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第628回】ベルトの異種格闘技戦

 それにしても25日の井上尚弥vsスティーブン・フルトンは凄かった。井上の8回TKO…まさに“モンスター”だった。井上はスーパーバンタム級転向初戦でWBCとWBOの2団体の世界タイトルを無敗王者のフルトンから奪取した。翌日の記者会見で井上はフルトンの試合後の態度にカチンと来たことを口にしている。試合後のリング上でも健闘を称えるハグにも応じず、「何が気に食わないのか視線を合わそうとしなかったし、試合後の会見の前にフルトンを呼び止めると彼は仕方ない態度で応じた」と…。問題はここから。ボクシングの世界戦の場合、王座決定戦以外はチャンピオンが団体から贈呈された個人所有のベルトに会場に持ち込む。もちろん、チャンピオンが勝って防衛すればベルトは戻る。でも負けたとしても個人所有だから前王者の手元に戻るのだ。ただし挑戦者が勝った場合は、そのベルトをリング上で巻き、試合後の会見、あるいは翌日の会見の時まで、そのベルトが使用される。前王者の許にベルトが戻るのは、その後である。新王者には後日、団体側から本人に真新しいベルトが郵送されてくるのだ。

上からWBC、WBO、IBF、WBAのベルト。

 ところが今回、井上が緑とエンジ色の2本のベルトを持っていたのは、試合後のリングから降りて控室に入る直前まで。フルトン陣営は、ここでベルトを回収したのだ。そのために試合後の井上の会見ではベルトなし。恒例となっている翌日の記者会見にもベルトはなし。せっかく大勝利をあげて4階級を制した晴れがましい会見なのに、絵柄的に寂しかった。いつも対戦相手にリスペクトをはらう井上もフルトンに対しては「そんな奴ですよ」とバッサリ。井上の勝利後、フィリピンから観戦に来ていたWBA&IBF同級王者マーロン・タパレス(フィリピン)が私服でリングイン。わざわざ黒いWBCと赤いIBFの2本のベルトを持参して、井上との統一戦に応じる態度を示す。それはプロレスならあるあるの演出だと思った。井上は年内にスーパーバンタムでも4団体統一王者になるのは間違いあるまい。あの“モンスター”井上尚弥に勝てるのは“ユニコーン”大谷翔平しかいないと思った…。

レイスvsグラハムのWタイトルマッチ。

 プロレスではWWFとNWA、WWFとAWA、NWAとAWAのダブルタイトルマッチはあったけど、ユニファイドゥ・チャンピオン(統一王者)は誕生していない。日本では三冠ヘビー級王座の例はあるけど、一つの団体の中での統一なので、ちょっと意味合いが違う。思い浮かばないけど、何か例があったら教えてください。メキシコでもNWAとUWAの王者同士が戦ったことは何度もあるけど、あったのは片方のタイトルが懸かった選手権だけ。互いにベルトを懸けてぶつかる統一戦は一度もない。アメリカのメジャー団体は団体側がベルトを造り、1本のベルトを持ち回りで使う。それは日本も基本同じである。ベルトを新調しない限り1本のベルトがチャンピオンの腰から腰へと移動する。

 以前に一度書いたように、ボクシングでは1963年発足のWBCが70年代後半から80年代前半頃から緑ベルトを各階級のチャンピオンに緑のベルトを贈呈するようになった。83年に新日本がそれを模して?丸いプレートのIWGPベルトを造らせた。WBCに習って後発のIBF、老舗のWBA、さらに後発のWBOがオリジナルベルトを造って新チャンピオンたちに贈呈している。1952年に日本人初の世界王者になった白井義男(WBAの前身であるNBAの世界フライ級王者)のベルトは『ザ・リング』誌からの贈呈ベルトだった。力道山が1954年に造った日本ヘビー級選手権、55年のアジア・ヘビー級選手権、56年の重量級日本選手権、58年と62年のインターナショナル・ヘビー級選手権などは力道山個人が造らせたのだろうが、三菱電機というビッグスポンサーから資金援助みたい事があったとしてもおかしくない。ファイティング原田が62年にフライ級、65年にバンタム級の王者になった時、ベルトを造ったのはフジテレビだったと聞く。以後、海老原博幸もフジテレビ、藤猛は日本テレビだったかなあ…。小林弘と西城正三は日本テレビ、沼田義明がTBS、大場政夫が日テレ、輪島公一がフジテレビ、具志堅用高がTBS…と、世界チャンピオンたちはテレビ局のお抱えとなり、テレビ局はチャンピオンのためにベルトを贈呈していた。具志堅のベルトなどはベルトの中央に「TBS」の刺繍があった。つまり老舗WBAは90年代まで「ベルトはチャンピオンが各々勝手に作ってください」だったのだ。

具志堅用高のベルトはTBS製。

 テレビ局がベルトを贈呈する…こうしたボクシング界の慣例を日本のプロレス界も踏襲したのだろうか、松本徽章が製作した馬場のインターナショナル・ヘビー級選手権は、1965年に日本テレビが資金提供して造られたものと言われている。1971年のUNヘビー級選手権はNET(現・テレビ朝日)がスポンサーとなって吉永プリンスで造らせたようだ。日本もアメリカもチャンピオンベルトは基本、使い回し。故に1本のベルトに価値がある。逆に言うならば、長く頻繁に使われる上、凶器にもなるために痛みも早い。ベルトは基本的に日本では団体の管理下にあってタイトルマッチの際に事務所から試合場に運ばれる。海外ではチャンピオンになった人間が在位中、個人保管する。そのため、信用できる者でないとベルトは渡せない。メキシコでは1961年にゴリー・ゲレロがEMLL管理下のNWA世界ライトヘビー級ベルトを地元のエルパソに持ち去る事件が起きた。82年には同王座のベルトをダビッド・モーガンがタクシー内に忘れて紛失したと偽り、英国にベルトを持ち帰ろうとしてメキシコ国際空港で捕まるという事件もあった(モーガンはメキシコから永久追放されている。ただし、この男、新旧3種類のベルトを全部巻いた唯一のチャンピンとなる。その話はいつかしよう)。

ゴリー・ゲレロはベルトを持ってトンズラ。

 チャンピオン本人が自費で自分のためのベルトを造ったのは力道山の各タイトルや73年の馬場さんのPWFだろうか。そこには王様が自分の権威を誇示するために高価で手の込んだ王冠を造ろうとするのに似たような意図があった。逆にメキシコのUWAではイグナシオ・キンタナ製がリーズナブルな価格で出来るためにチャンピオンたちが記念に個人所有のものを作り出す。新日本プロレス81年6月24日、蔵前の『3大スーパー・ファイト』で初来日したビジャノ3号。来日当日、京王プラザホテルのビジャノの部屋へ行くと、彼は私に新しいベルトを見せてくれた。オリジナルカラーの紫とピンクの、いかにもマイベルト!であった。

ビジャノ3号の紫&ピンクのマイベルト。

これは3月1日のトレオでフィッシュマンから奪ったタイトルで、ビジャノは早速マイベルトを使って来日前に小林邦昭の挑戦を5度も退けていた。新日本がもっとしっかり情報を掴んでいたのなら…。あの武道館のタイガーマスク戦はUWA世界ライトヘビー級のタイトルマッチにすべきだった、と悔やまれる。それでタイガーが勝ったのならば、ボクシングの世界戦のように紫&ピンクベルトを試合後にビジャノに返せばいい話である。それで虎柄?のキンタナ製ベルトでも造らせてメキシコから送って貰えば良かったのだ。そうすれば猪木ヘビー級、藤波ジュニアヘビー級、タイガーマスク ライトヘビー級の3階級のミルフィーユ構造でマッチメイクできたのに…。となると無理やり藤波をヘビー級に転向させることもなく済んだかもしれない。そうすると長州力の出番があったのかなあ…と思う。とんだ空想である。とりとめのないベルト話をしていたら、『チャンピオンベルトカーニバル』をやりたくなった。秋になったら第4回をやりますか…。

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