ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第652回】日高のプロレス(1) 

 今、私は北海道の新ひだか町静内にいます。お隣の新冠町とこの静内周辺は以前にも書いたように私の第二の故郷。今週は月曜から金曜日まで、馬産地の各スタリオン施設で行われる種牡馬展示会があるから取材に来たのである。去年も毎日晴天だったが、今年も晴天続き。そして今年の日高は雪が少ない(関東は大雪なのに…)。街を外れて10分も車で走ると、あっちもこっちも牧場がいっぱい。放牧地では1歳馬たちが仲良く走りを待っている。遠くの光る日高山脈も真っ白。寒いから夕方には温泉に入って、夜は美味しい海鮮やジンギスカン三昧…。 

 日高本線は苫小牧から146キロ…襟裳岬の手前の様似町まで太平洋沿いを伸びていた鉄路だったが、2015年1月の高波で被害を受けて運休となり、復旧が叶わず2021年4月に廃線になってしまった。寂しい限りである。今いる静内は路線中、一番大きな町だ(と言っても人口2万2千人)。明治から昭和に中期にかけて北海道を網の目のように走っていた鉄道は炭鉱の閉鎖や赤字等でその多くが廃線になってしまった。都会では鉄道が無くなることはまずない。悲しいかな北海道では当たり前に起こる。私がバイクで1970年に初めて北海道へ行った頃にはあった路線の半数以上はもうない。相生線、胆振線、岩内線、歌志内線、江差線、興浜線、根北線、札沼線、標津線、白糠線、深名線、石勝線、瀬棚線、手宮線、天北線、宮内線、名寄本線、羽幌線、美幸線、広尾線、幌内線、松前線、万字線、湧網線、夕張線…これらは1980年代に次々廃線になっている(この廃線前に全部乗ったというマニアな友人がいる)。これらに比べると日高本線は頑張っていたのになあ…。1950年代~70年代のプロレス巡業ではこうした日本中に敷き詰められた鉄道網を利用して、日本人選手、外国人選手、団体関係者、新聞記者たちが移動していたのである。団体の移動バスが使われるのは70年代半ばからで、その後もしばらく鉄道を併用していた(バスをいち早く導入した国際は経費削減のため長距離もバス移動を強行した)。鉄道移動も日本人とガイジンの時間をずらして別々の電車に乗せるのが通常だったが、本数が少ない場合、同じ列車になってしまうこともあった。1978年夏に福井から新潟に北陸本線で移動する時に私も一度それを体験した。団体の移動バスが1台しかない時はガイジンだけが鉄道ということもあったし、ガイジンの数が減った晩年の国際はガイジンも同じバスに乗っていた。 

新ひだか町静内を俯瞰すると。

 ここ日高本線沿線はプロレスがあまり来ないエリアで、日高地方には「町」があるけど「市」がない。日本プロレスは日高本線の起点である苫小牧市の王子製紙体育館、王子スポーツセンターまでは来ているけど、日高管内には入り込んでいない。日プロが大名行列をするのは札幌、旭川、函館、小樽、釧路、帯広…といった都市だけ。最初に日高でプロレスが行われたのはいつだろうか…。それはやっぱり北海道に強い国際プロレスだった。1969年11月2日、『IWAワートルド・タッグ挑戦シリーズ』、それは今いる静内町立の体育館じゃないか。メインはストロング小林&グレート草津&大磯武vsシャチ横内&フランク・バロア&ゴージャス・ジョージ・ジュニアの6人タッグ。セミはエルマンソー・ブラザース&イアン・キャンベル&ブルーノ・アーリントン。その下が豊登&田中忠治vsゴードン・ネルソン&バッド・ゴディ、サンダー杉山vsバディ・コルト…おおっ、とっても豪華でいいじゃないか。サラブレッド生産地の日高には多くのスタリオン(種牡馬)が供用されている。当時は輸入種牡馬が主流で日高にはイギリス、フランス、アイルランド、アメリカなど競馬主要国から多くの種馬たちが居た。この日の静内の体育館にも英仏から種馬のようなムキムキのプロレスラーたちがいっぱい来ていたということになる。主催者発表は何と5000人!これ、前日の札幌中島スポーツセンターと同じ数字じゃないか。鵜呑みにすると静内町住む4人に1人はプロレスを観に来たことになる。アリエヘン。 

静内の二十軒道路は桜の名所。

翌70年にも国際は日高管内に来ている。『ビッグ・サマーシリーズ』(8月13日)の浦河町築港埋立地。浦河町は静内から東南へ42キロにある第2の町(人口1万1千人)で、馬産地としての歴史は古く、名門の牧場が集中…三冠馬シンザンなど数多くの名馬を生産している。浦河の街自体は海沿いに蛇のように細長い。会場は狭い町に港を築いた時の埋め立て地の跡地なのだろう。主催者発表は3200人。ここでは人口の30%がプロレスを観にきた計算になる。それはいいとして、こんな小さな漁港は端でなんとタイトルマッチが行われたのだ。ギョギョギョである。それはヨーロッパ・タッグ選手権…サンダー杉山&グレート草津vsレス・ウォルフ&パンチョ・ロザリオである。それにしても漁港の埋め立て地でタイトルマッチをやったという例は他にないであろう。旗揚げしてまだ数年目、TBSがバックに付いているのに、国際はもうこういうことを地方でやっていたんだなあ。北海道の片田舎の漁港でヨーロッパ・タッグとは…。まったく無縁じゃないかと思うが、先に述べたように日高のサラブレッド生産者たちは60年代からずっと、英国やフランスへ行って何千万円、または何億する種馬を買い付けてきたのである。チャンピオンの草津&杉山よりヨーロッパをよく知っているお客が混じって観戦していたはずだ(ここの人たちただのファーマーじゃない…)。では新日本と全日本の日高進出はどうだったのだろう。それは来週にしよう…。今日は旅先なので、ここまで…。明日の午後に静内町の体育館がどうなっているか覗きに行ってみるか。 

  

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