ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第600回】天国への窓から

 今回のコラムで600回を迎えた。途中、何回かの中断(旅・入院・リニューアル等)はあっても、600回やったことに変わりない。我ながら呆れる、いや自分を褒めてやりたい数字だ。このダラダラ長い文章に付き合ってくれた皆さんには深く感謝したい。最近の傾向としては、出来るだけ自分本位の、自分をどんどん出す内容にしている。それは終活を意識しているからかもしれない。自分が66年間、何をやって来たか…それを残しておきたい。つまり後書きの日記みたいな位置づけにしている。そんな私事、私のつぶやきにもう少し付き合ってもらいたい。何せ歳ですから、以前に書いたことをまた書いていたりしたら、ごめんなさい…「あれっ、また同じことを…」と思ったら読み飛ばしてください。そうならないようにボケ防止のために新ネタを必死に仕込むように努力します。

先々週だったか、猪木さんの亡くなったマンションの下で手を合わせたということを書いたと思う。白金台の高級タワーマンション…賃貸だったので、もう10月いっぱいで引き払っている。ご存知のように白金台は我が故郷。生まれてから21年間、白金に住んでいた。幼稚園から大学卒業までこの土地で暮らした。テレビを観ながらBI砲を応援したのも、プロレス観戦に出掛けたのも、マスカラスのファンクラブを立ち上げたのも、初めてメキシコへの旅に出たのも、みんな白金台である。清水家の墓が力道山の眠る池上本門寺にあるのも、母方の横井家の墓が猪木さんの納骨される総持寺であるのも超奇遇であるが、まさかアントニオ猪木が白金台から旅立つとは…実に不思議な縁だと思う。

 猪木さんが亡くなられて1週間後、大塚直樹さんからメールが入った。「明日(10月8日)、竹田会長と一緒に(目黒)で啓介さんに会って食事をします」。それをわざわざ報告してくれる…それって私を誘ってくれているのかなあ…いやいや、そんなあ。このお三方が「三人会」という食事会を長年やってきたことを私は知っていた。でも、「いいですね。羨ましいなあ」とか返事をしていたら、「じゃあ、清水さんも来れば…」なんてなったかも。いやいや、これ、あまりにずうずうしい勝手な想像ですが…。でも、私はその日、別件で分倍河原に飲みに行く約束をしていたので、大塚さんには「行ってらっしゃい」と返した。するとその夜、大塚さんから写メが送られて来た。それは猪木さんが亡くなられたマンションへ行ってきた報告だった。亡くなられた猪木さんの部屋で啓介さんと大塚さんのツーショットと窓から風景が2枚、マンション下から建物を見上げた絵の、計4枚。この時、私は初めてそこが白金台であったことを知る。もし、もし私がそこに行かせてもらっていたら、ずうずうしく形見の品をいろいろ貰って来て、きっと猪木信者たちに大ひんしゅくを買っただろう…。

21日発売。ロビンソン戦の卍が表紙。

 先週予告した通り、来る21日(水)発売のGスピリッツVol.66では猪木啓介氏と大塚直樹氏の対談で掲載します。そこでは前述のツーショットを掲載するけど、窓からの風景は載せていない。なので、ここから特別公開しよう。1枚目は猪木さんが亡くなった部屋の窓からもの。ベッドから見えていたという光景。

猪木さんのベッドから見えた風景。

 正面に見えるグリーンベルトは国立自然教育園(南北朝時代の白金長者屋敷跡で、江戸時代は高松藩松平讃岐守の下屋敷)と東京都庭園美術館(元は白金御料地→吉田茂総理大臣仮公邸→白金迎賓館)。ここはとにかく広い…子供の頃に塀を乗り越えて忍び込んで池でザリガニを釣ったよ。その左奥が、私が小学校高学年から東スポを買いに日参し、高校や大学へ通学するのに使用した最寄りの国鉄・現JR目黒駅(山手線)。写真右のビル群が恵比寿ガーデンプレイス(顔見知りだけを集めての馬場さんを偲ぶ会はここでやった)。ここは江戸時代には柳生但馬守と細川越中守の下屋敷で、明治からはヱビスビールの工場だった。その工場に引き込み線があって、そこが発展して出来たのが現在のJR恵比寿駅。私が大学に通学している頃も工場から貨車にサッポロビールの積み出しをしていた。馬場さんの恵比寿のマンションは写真のずっと右なのでここには写っていない。写真の正面奥が丹沢山地。8日はあいにくの曇天だったが、「この真正面に富士山が望めてすごく綺麗なんですよ。兄貴は富士山をよく眺めていましたよ」と啓介氏。私の子供頃は、こんなにビルが無かったから白金台の自宅からサッポロビール工場の3本煙突の横に富士山が見えた。特に夕焼けの富士は素晴らしかった。このガーデンプレイスのビル群の裏手が代官山だ。「代官山パシフィックマンション」は新日本プロレス旗揚げの事務所があり、「代官山タワー」は倍賞美津子さんと長く住んだ思い出のマンション。この窓から猪木さんはどんな思い出で、そちらを眺めたことであろう。代官山が隠れてしまっているのが、長い年月の経過で猪木さんを取り巻く環境が変化してしまったことを表しているように思えた。アントニオ猪木は富士山に沈みゆく様を観て死期を悟り黄昏たことであろう。

34階、東のリンビングからの遠景。

 こちらがリビングのある部屋の窓から見た風景。写真の真下に私の母の実家があり、写真中央が高野山東京別院(ここの地下は7階建ての東京電力パワーグリッド変電所になっている)。中央左に校庭が見えるのが高輪台小学校。ここは関根勤や有賀さつき、そうそう宮尾すすむの御子息・山口雅史さんが卒業した小学校。1枚目の写真に写ってないけど、我が母校白金小学校の卒業生には宮本亜門、辺見えみり等がいる。この二校が高松中学校で合流する(関根勤は私の3つ先輩)。私的には高輪台小学校から来た女の子たちは白金女子よりも可愛いと思った…。新種に見えた…マジで。たまたま私の時だけがそういう傾向だったのか、白金は盛り返したのか、どうなんだろう。いやあ、とんだ脱線だあ。この写真の高輪台小学校の裏のギリギリの見える緑が泉岳寺(浅野内匠頭と赤穂四十七士の墓所があるのであまりに有名)。写真中央やや上の白く細い屋根…あれが噂の「高輪ゲートウェイ」駅(私はまだ降りていない)。その上に見えるのがレインボーブリッジだ。「こちらの窓からは夜景が綺麗なんですよ」(啓介氏)。写真左上の奥のビルの谷間のずっと先…そちらがアントニオ猪木が数多くの名勝負を残した元蔵前国技館跡や両国国技館の方向。そのさらに先が馬場さんと同日デビューした旧・台東区体育館のあった方向だ。ビル群が無ければ、両国国技館の緑屋根も俯瞰できたことだろう。

 日の出は恐らくレインボーブリッジの右方向か。10月1日、東京の日の出は午前5時35分。しかし、アントニオ猪木に朝は来なかった。その日は快晴で富士山定点観測カメラを調べると、朝から雲一つかからぬ姿だったことがわかった。目を閉じたままの猪木さん…その窓辺からは美しい富士山が望めたことであろう。前日の9月30日朝、富士山は平年より2日早い初冠雪を記録している。頭頂部少し雪化粧をした富士を猪木さんはきっと観たはずだ。白き頂きを望む白金の空へ召された猪木寛至さん…窓辺からの光景を目に浮かべながら、改めて合掌したいと思う。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅