ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第610回】この家紋は?

お別れの会はシンミリと…。

昨日、両国国技館での『アントニオ猪木 お別れ会』へ行ってきた。赤いマフラーをした信者たちがいっぱいいた。それぞれがそれぞれの思いで、猪木さんにさよならを告げたのだろう。私にもいろんな思い出があるけど、ここ両国でならば、1985年4月18日のブルーザー・ブロディとの初対決…。セミの藤波vsマシーンの時に私は試合を観ないで東西の支度部屋を結ぶ通路をふらふら歩いていた。すると西側からダダダダッとブロディが全速力で走ってきたのだ。私は身をかがめて交わすと、ブロディは東の日本人支度部屋に駆け込み、アントニオ猪木を襲った。支度部屋は紅白の陣幕で仕切られていたが、それもメチャメチャに倒れて、ブロディは疾風の如く去って行った。テレビカメラは回っていたのかなあ…偶然だけど、その現場に居合わせて記者は私だけだったように思う…。うずくまっている猪木さんは泣いていた。なぜ泣いている意味がわからなかったけど、あんなに間近で生の涙を見たのは、あれが最初で最後だった。あの日が最初の新両国国技館で、今回が最後の両国となった。それにしても、こんな大事な日に、いやラストチャンスにも関わらず、ついに現れることのなかったNWF世界ヘビー級のチャンピオンベルト…ああっ、やはり日本プロレス界最大にして最強の国宝は失われてしまったのだなあと実感した。これがなぜ、大問題にならないのか、しっかり追跡調査されないで放置されているのか、魔訶不思議である。

總持寺のお墓はひっそりと…。

猪木さんへのお別れは、両国ではなく、改めて總持寺の猪木家の墓前でしようと思う。前にも何回か触れたように私の母方(横井家)の墓が猪木家のすぐそばなのだ。GスピリッツVol.66の猪木啓介さんと大塚直樹さんの対談の際、啓介さんは「あの墓所に手を入れて、本門寺の力道山のお墓をモデルに改修しようと思います。銅像も設置したいです」と語っておられた。なので先週の金曜日、横井家の墓参りを兼ねて偵察に行ってきた。「樹木が伸びきっているので、切って明るくしたいです」(啓介氏)。その言葉の通りに木々は切られていて、お隣の大西瀧治郎海軍中将(神風特攻隊の創始者)のお墓がはっきり見えるようになった。まだ新しい墓石や銅像が建ちそうな雰囲気はない。費用もかかることだろうし、一般公開はまだ少し先かもしれない。お線香を炊いて、手を合わし、猪木さんのご両親に「もうすぐ息子さんがここに来られると思いますよ」とお伝えしておいた。

以前から気になっていたのが、猪木家の家紋だ。猪木家の墓石に刻まれた、この家紋は何なのだろうと…。あの対談の折に啓介さんは「私たち猪木家のルーツは鹿児島県出水市です。今でも少し猪木姓の方が住んでおられますよ」とおっしゃっていた。薩摩の島津家は独自の行政と軍防による外城制度(支城ネットワーク)を作った。中でも出水は肥後との国境に接するため、最強の武家集団が配置されていたとされる。現に出水麓には県下最大の武家屋敷群が残っている。猪木家もそんな最強武士の一角を成したのではないかと想像する(「ファミリーヒストリー」で調べてほしかったよ)。いつかもう一度出水へ行って私がルーツを調べてみるか。

私の写した出水市武家屋敷。

家紋というのは、個人や家族を識別するために用いられる日本独自の紋章で、5000種類以上の個別の紋が存在するらしい。よし、それならば猪木家の家紋は何なのか調べてみよう…とコツコツ始めてみた。ちなみに清水家の紋は織田信長の「織田木瓜」(五つ木瓜)に酷似している。父親は「信長と同じだぞ」と言って自慢していた。猪木家のそれは五つではなく、四つに見える。最初に「これでは?」と思ったのが、「丸に花菱」という紋。しかし、よく見ると、猪木家のそれはもっと模様が複雑だ。そして「おおっ、これだ!」とやっとのことで同じものを発見する。それは「丸に木瓜」という家紋。木瓜(もっこう)とは、鳥の巣を図案化したものとも、キュウリの断面とか所説あるが、子孫繁栄を意味しているらしい。実はこの家紋は五大家紋の一つといわれ、多くの家で使われている有名な紋だった。他の九州では猪木さんの母方の相良家、有馬記念の有馬家、力道山ゆかりの大村家も木瓜が家紋だという。

猪木家の家紋は「丸に木瓜」。

家紋といえば、猪木さんがアリ戦の調印でニューヨークに乗り込んだ時に紋付袴の日本の正装で臨んだのは有名。改めてこの時、猪木さんの着ていた着物を見ると、あれれっ、家紋が違うじゃないか。たぶんこれは「丸に違い鷹の羽」という家紋だ。これは忠臣蔵で有名な浅野一族もそうだし、三河以来徳川譜代の阿部氏も、薩摩下級武士だった西郷隆盛もこの家紋。ただ、猪木家墓所に刻まれている「丸に木瓜」がやっぱり本物とすべきで、そうするとあのニューヨークの紋付は、ただの貸衣装か、急仕立ての着物だったのではないかと思われる。

アリ戦のNYの紋付の家紋は…。

猪木家のあった薩摩藩と佐山さんの長州藩と薩長タッグを組んで、慶応4年(1868年)5月に「北越戦争」(戊辰戦争の一つ)で長岡藩と激突した。長岡藩の指揮を執ったのは映画「峠」の主人公・河井継之助。この長岡藩側には三条の馬場さんの子孫も混じっていただろうか…。有名外国人レスラーを呼び寄せるのではなく、継之助はスネル兄弟(ファンクスか?)から当時の日本に3門しかなかったガトリング砲2門を購入。機関銃のようなガトリングを乱射し奮戦するも、継之助は傷ついて撤退中に没する。それから99年後…越後の馬場&先祖が薩摩の猪木が合体して、BI砲が結成されることになる。薩摩藩と長岡藩…風土、文化、気質も対照的なお国柄だ。だからBI両雄は本質的に相容れなかったのかなあ…なんて思いつつ、次号のGスピリッツの特集は「ジャイアント馬場&アントニオ猪木徹底比較」(仮題)である。お楽しみに…。

ところで、猪木さんの納骨は近々、總持寺で執り行われることになるだろう。家から車で20分足らずの場所なので、また、その後の總持寺の様子を報告したいと思う。どうやら猪木家の意向で十和田への分骨はしないようだ。もし少しでも分骨するならば、ブラジルのご兄弟の側にも…と思うのは私だけだろうか。啓介さん、持って行ってあげて…。

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