ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第609回】610 en MEXICO

新日本の『ファンタスティカマニア2023』が3年ぶりに開催された。久々のルチャドールたちの競演を観に後楽園ホールに足を向ける。それも2日連続で…。どちらも超満員だった。「コロナが収まり出して、待ちに待ったお客さんがドッと詰めかけた感じですね。幕張もいっぱいでしたよ」と菅林会長。私のお目当てはイホ・デ・ビジャノ3号とアトランティス・ジュニア…この2人のレジェンドの息子をチェックすることだった。ビジャノはアレナ・メヒコでナショナル王座に挑戦しただけのことはある素材。そして6年前、アトランティス宅でインタビューをした時、父と私にコーヒーを入れてくれた品のいい息子は立派なエストレージャになっていた。

イホ・デ・ビジャノ3号は長身で細身。
アトランティス・ジュニアは父親より一回り大きい。

そういえば彼らの父親たちは2000年3月17日のアレナ・メヒコで史上に残るマスカラ・コントラ・マスカラをやった同士である。あの時、敗者ビジャノ3号(アルトゥーロ・ディアス・メンドーサ)がリング上で抱いていた子供は…もしかしたらと思ったけど、あれはビジャノⅢジュニア=長男で、今回来ているのは次男。あのマスカラ戦の時、彼はまだ生後4ヵ月の赤ちゃんだった。アトランティス・ジュニアは、その時1歳4ヵ月なので物心もついてなかったはず。あれから23年…その息子たちが日本へ来て試合をしている。アルトゥーロも天国で喜んでいるだろう。時が経つのは早いものである。

アントランティスに敗れたビジャノが抱いていた子は…。

1週間経っても、隣のドームでやった武藤敬司引退の興奮は消えない。そこで「武藤とメヒコ」というミスマッチ(?)な視点で無理やり何かを書いてみようと思う。新弟子の武藤が最初に間近で見たメキシカンは84年『サマー・ファイト・シリーズ』に来日したカネックであろう。来日直前にドス・カラスからUWA世界ヘビー級王座を奪還したばかりなのに、日本でのライバルの藤波は長州と数え唄をやっていたので、まったくテーマ無しの来日。武藤はその年の10月にデビューし、年を越す。維新軍の離脱…ジャパンプロレス結成で新日本はさらなる人手不足となる。5月の『IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ』…ここにカネックとエンリケ・ベラが来日。大昔から春の祭典はガイジンの数が多いから、カードにあぶれたガイジンと若手がを当たるチャンスが出来る。カネックやベラがあぶれて武藤と当たるチャンスもあった。でも、武藤に初めてぶつけられたガイジンは最終戦・名古屋でのアイアン・マイク・シャープ。その後のシリーズでブラック・タイガー、ジェリー・モロー、さらにトニー・セントクレアー、ハクソー・ヒギンズ、ケリー・ブラウン、アノアロ・アティサノエ、シバ・アフィらと当てられる。同期の蝶野、橋本らに比べると、ガイジンとの対戦頻度は明らかに多かった。早期の海外武者修行が見えていたからだろう。

武藤がメキシカンと初対戦したのは怪魚仮面フィッシュマンで、10月8日の五所川原のタッグマッチである。コブラと組んだ武藤は怪魚&黒猫とタッグで対戦。その時はフィッシュマンが武藤をフォールしている。翌日の八戸でもタッグで対戦。取材に行ってないので観られなかったが、どんな試合をしたのだろうか…。10月31日、猪木vsブロディ6度目の対決があった東京体育館。ここが武藤壮行試合となる。カール・スタイナー(ボブ・ダラセーラの変身)を破ってガイジンに初勝利…(この試合は観たよ)。行先はフロリダだけど、メキシコだったらどうだったのだろう。坂口さんが同行してヒロ・マツダに預けられたが、佐野や畑が行ったようにUWAとの親交だって続いていた。

帰国後の87年1月。ここにカネックとレイ・コブラが来日した。一流とはいえないレイ・コブラはクロネコの大親友…それだけが来日の理由だった。武藤は12日の桐生でカネックと初対戦。メキシコ人との初のシングルだ。この時もカネックは12月のトレオでドス・カラスからベルトを奪回したばかり。今回もテーマなきカネックの来日だった。メキシコでは絶対組まれることのないレイ・コブラとのタッグでアンダーカードに甘んじていた。そんなカネックを武藤はジャーマンで下している。28日の和歌山県岩出町での再戦も勝利(これはどんな試合だったか見ておきたかったなあ…)。武藤がメキシコへ行っていたとしたら、UWA世界ヘビー級チャンピオンになれただろうか。達成すれば猪木、長州、藤波に続く快挙である。過去にはスタン・ハンセン、ストロング小林、平田淳二らが失敗していて、ハードルは高いけど、武藤ならば可能だったと思う。

ピラミッドの前で定番メヒコ衣装に変身。

時は流れた。2006年5月、武藤はメキシコ(CMLL)に初遠征する。このツアーに私は同行した。久恵夫人同伴の旅だった。「何で清水さんは、そんなにスペイン語しゃべれるの?」。何処へ行くのにも私はかなり重宝された。12日のアレナ・メヒコ定期戦は武藤として登場し、当時ルードたったアトランティスとも対戦する。13日の『ドラゴマニア』ではムタに変身。今は亡きペリートとも戦った。14日のコリセオでは武藤として事前に発表されていたが、「ムタの方がやりやすいよ」と急遽、衣裳等をすべてチェンジ。現場監督のパニコだけでなく、詰めかけたファンをも驚かせた。メキシコ人は生来、こういうおどろおどろしいキャラが大好きであるが、ムタの理解不能な動きにはサプライズの連続だったようだ。

なぜかわからずルード応援隊に紛れ込んで。
メキシコ人たちの頭でもムタは解読不能。

試合だけでなく、テオティワカンのピラミッドやソチミルコの舟遊びなどメキシコを満喫した武藤…私は旅の終わりにロングインタビューをしているので、そこから抜粋して発言をまとめてみる。

「文化や言葉、ルールの違いとか戸惑ったけど、それはそれで勉強になったよ。ここのコミッショナーの発言力の強さには驚いたね。彼らがノーと言えばすべてノーなんだ。そういうことが厳しく守られているから、メキシコのプロレスって歴史や発展があるんだよね。ええっ、コミッショナーってメキシコ政府が認可した法人組織なの!? 驚いたね、ビジネスのステータスがしっかりしている。それに比べると日本なんて節操がないね。ここの環境にすぐ順応できる日本人はなかなかいないよ。今回はムタのキャラで誤魔化せたけどさ。もし若い時に来ていて、ルールが把握できて長く居れば、俺もここでやれる自信があるよ。それと一つの街で、一日にいろんなアリーナで、あるいは同時刻にたくさんのプロレス興行が行われているっていうのにも驚かされたよ。今回3試合で俺の相手は全員違った。メキシコ全土には何千人の無名のレスラーが居てさ、俺と戦った相手たちは一握りのスターなんでしょ? だからここで生きていくって大変だろうなって思ったよ」

 

さすが武藤敬司、観察眼は大したものだ。たった9日間の滞在でメキシコマットにとって最も大事な本質をしっかり学び取っていた。『ファンタスティカマニア』も一握りのスターの中からセレクトされて来た者たちということだね。それにしても、もう17年も経ってしまったあのツアー…私にとってはまるで昨日のことのような…いや、誠にいい思い出でした。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅