ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第643回】アジア遺産(1)

 恐らく世界一と思われるコレクターのクリスチャン・シメットから連絡があった。先週の金曜日からパリでルチャEXPO展覧会が始まると…。“すごいじゃないか、クリチャン!”。題して「ルチャラーン! メキシコ・ルチャリブレの歴史展」。クリスチャンのルチャEXPOはモンテレイ、メキシコシティに続いて、今年6月~7月にテキサス州ブロンズウィルで開催している。今度はパリか…。そういえばパリに家族旅行していたのは、この視察と契約等のためだったんだあ。芸術の都でメキシコのルチャは…マスクは…どう評価されるのだろうか。これからパリにお出掛けの方は是非、覗いてきてほしい。そして日本開催も是非!と思うが、スポンサーが必要だね。

パリで開催のルチャEXPO

 さて、井端ジャパンが「アジア・チャンピオンシップ」に優勝…侍ジャパンは大会連覇でアジア王者となった。アジア王者…懐かしい響きがする。アジア王者といえば、シングルのイメージは力道山と大木金太郎…。アジア・タッグのチャンピオンベルトは先日(5日)のマイティ井上さんのトークショーでお披露目され、じっくり観てきたばかり。この時、井上さんは「アジア・タッグといえば極道コンビのイメージがあるけれどねえ」と言われていた。実際、井上さんはアニマル浜口と組んで1977年11月に極道コンビへの2度目の挑戦で獲得している。世間的には極道≒アジア・タッグのイメージは強いようだが、私世代は違う。このベルトを巻いている姿でランク付けすると①アントニオ猪木&吉村道明②大木金太郎&吉村道明③坂口征二&吉村道明(微妙だが、なんだかんだ9連続防衛した)…極道コンビは4番手かなあ。

馬場&豊登は王者トロフィー。

 そう、極道コンビ…あるいは全日本所属の中堅・新鋭のイメージが付いてしまっているけど、日本プロレスではテレビマッチのメインを張った日本初のタッグタイトルである。馬場&吉村の王者時代まではアメリカに習ってトロフィー1本が王者の証だったが、馬場がインター・タッグを獲ってタッグ2冠になったためにアジア・タッグを返上し、それを機にトロフィーを止めてベルトを作ることになった。恐らく松本徽章製であろう。馬場vsフリッツ・フォン・エリックが行われた1966年12月3日の日本武道館のセミでエンジ色の新ベルトが披露され、ターザン・ゾロ&エディ・モレア(ジャック・クレインボーン)を決定戦で破って大木&吉村がベルトを巻いた。吉村は1957年に日本ジュニアヘビー級獲得時に一度ベルトを巻いているが、アジア・タッグ初戴冠したのは1963年2月で、パートナーは豊登…その時はトロフィーだった。大木は同年12月にロスでミスター・モトとWWA認定USタッグを初戴冠…その時はトロフィーだったから、ベルトというものを巻いたのはこの時が初めてである。1960年代後半…日米でタッグ王座はトロフィーからベルトに移行しようとしていた。

初の武道館でピカピカベルト登場。

 馬場がインターのシングルとタッグ、猪木がインター・タッグ、大木&吉村がアジア・タッグという四天王は美しかった。大木&吉村が3度獲得×4度ずつ防衛=通算12度防衛で、印象に残る相手はビル・ミラー&リッキー・ハンター、スカル・マーフィー&クロンダイク・ビル、ブルート・バーナード&ロニー・メインあたりか。それより何より、このベルトはアントニオ猪木に日本プロレス初戴冠のものということを忘れてしまっては困る。だから両国国技館でのお別れ会の時にUNとともに、これも展示されるべきものだった。UNはシングルとはいえ僅か9ヵ月間だが、アジア・タッグは67~71年までの間、通算で3年以上も猪木の腰にあったベルトだからである。

血だるまの闘将吉村と若獅子猪木。

67年5月26日、札幌で猪木&吉村はワルドー・フォン・エリック&アイク・アーキンスとの決定戦で勝利して、日プロ復帰から3週間後の電撃タイトル奪取だった。このチームは3度防衛後、猪木がインター・タッグ獲得のために返上。そう言いながらも猪木は69年2月の札幌で吉村が渡米のために返上したベルトを大木と組んで獲得している(vsバスター・ロイド&トム・ジョーンズ)。このチームはネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズやブルート・バーナード&クルト・フォン・ストロハイムといった強力コンビを破るも大木がタイトル返上(アジアのシングルに専念するためというわからん理由で…)。それで同年8月9日の名古屋での王座決定戦で猪木&吉村が復活し、ベルトを奪還した(vsクラシャー・リソワスキー&アート・マハリック)。ここからはGスピの舟橋慶一さんの連載で触れているようにアジア・タッグはNETワールドプロレスリング中継の看板になった。同年10月の山形でのバディ・オースチン&ミスター・アトミックとの防衛戦で一時意味不明のタイトル預かりになったものの、仕切り直しで奪回し、そこから71年12月1日の名古屋でドリー&マードックと引き分けるまで実に15連続防衛をした。これは長いアジア・タッグの歴史上、力道山&豊登の12連続V(1960~62年)を抜く最多記録だ。挑戦者チームはドリー&レイス、ジン&オレイ・アンダーソン兄弟、ジ・アサシンズ、バレンタイン&レイス、キニスキー&レイス、ブラック・ゴールドマン&グレート・ゴリアスなど強豪や曲者のチームがたくさん混じっていた。ある意味、GI砲のインター・タッグの挑戦者チームよりメンバー構成はバランスが良かった。つまり2年4ヵ月間無敗だった猪木&吉村こそ、このタイトルの全盛期だったと言っていい。このチームは3度獲得で通算21度防衛した。これは力道山&豊登の通算20度を上回る新記録である。

専用の勝利者トロフィーもあった。

猪木個人の場合、これに大木とのコンビでの2度を併せると通算23度防衛ということになる。つまりこのアジア・タッグのベルトには若獅子の汗が獲得時を含めて26日分も染み込んでいることになる。ただし、アジア・タッグの個人記録なら力道山、吉村、馬場とパートナーを変えた豊登が通算31度防衛しているが、ベルトは一度も締めていない。やはりすごいのは吉村だ。吉村は豊登、ヒロ・マツダ、ジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木、坂口征二とパートナーを変えて獲得回数は10回、通算防衛回数はダントツの48。吉村道明こそ、日本プロレス史上最高のバイプレイヤーだったという証である。

製造から57年経過したベルト。

このタイトルの格は全日本に移ってから落ちた感は否めない。もし日プロ時代の格を継続していれば、鶴田&高千穂とか、鶴田&デストロイヤーが巻いていておかしくないベルトだったと思う。極道コンビはチームとして最高なのだが、馬場がもっと防衛の機会を与えるべきだったし、テレビへの登場機会をもっと増やすべきだったと思う。5年間4度の獲得で通算11回とはイメージの割りに防衛数が少ない。適切な挑戦者チームは来ていたと思うのだが…。ということで、1950年代の力道山&豊登の時代からアジア・タッグを観て来られた先輩たちから石が飛んで来そうだが、あくまでこのタイトル…いやこのベルトのピークは猪木&吉村だったと、声を大にして言いたい。私の中では最初に染みついた吉村&大木のイメージを、明らかに超えた最高の王者チームだったと思う。みなさん、次にこのベルトを観る機会があったなら、「あれは猪木遺産だ!」という目で見てほしい。そして主役を陰で常に支え続けた吉村さんのことも必ず思い出してほしい。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅